吉野  その16

 万葉の流れ喜佐谷川(象の小川)

 谷を埋めつくすばかりの杉と桧の美林を抜けると、喜佐谷(きさたに)の集落で、上千本から下って来た「象(きさ)の小川」は、青根が峰を源とする「喜佐谷川」と合流するが、万葉時代には今の「喜佐谷川」も「象の小川」として歌に詠まれ、大伴家持の父旅人

 昔見し 象の小川を今見れば いよよ清けく
 なりにけるかも   万葉集 巻3−316

724年(神亀元年)聖武天皇が吉野宮へ行幸の時に詠み、また、数年後太宰師(ださいのそち)に赴き、60歳で吉野を懐かしみ巻3−332も詠みました。
 桜木神社の祭神「天武天皇」

 「喜佐谷川」に沿って舗装されてなだらかな平坦の道を下ると、喜佐谷川がちょっと澱んだ辺りに写真の様な石柱が建ち「桜木神社」です。天武天皇が、まだ大海人皇子(おおあまノおうじ)と云われていた頃、兄の天智天皇の近江の都を去って、吉野に身を隠していましたが、ある時、兄の子(甥)大友皇子の伏兵に攻められられると、傍らの大きな桜の木に身をひそめ危うく難を逃れました。それがここ「桜木神社」で、その後、大海人皇子は672年壬申の乱で大友皇子に勝ち、明日香の浄見原に都を定め、天武天皇となって吉野の宮(宮滝)へ行幸されると篤くこの宮を敬い、亡くなられて後は、ゆかりの「桜木神社」に大穴牟遅命(おおなむちノみこと)、小彦名命(すくなひこなノみこと)と共に御祭神として、第40代天武天皇も祀られました。なお、「桜木神社」は古くから医薬の神として信仰が篤く、参拝すると疱瘡除けに御利益があり、初代の紀伊藩主大納言徳川頼宣はたびたび病気平癒を祈願し、高取藩主植村氏の崇敬も集めました。
 桜木神社の「こぬれ橋」

 「桜木神社」の石碑を横に見て、ちょっと下りると屋形の「こぬれ橋」が喜佐谷川に架かっていますが、この橋と同じ様な橋が下流に昭和36年頃まで在り、義経が親しみ、橋の名を古の書に尋ねると遠く平安の昔、恵愛法師の家集に有り、清少納言の「枕草子」に「うたたねの橋」と書かれた橋でしたが、今は記念碑のみで在りません。「こぬれ橋」を渡り境内に上ると樹齢約五百年の神木老杉が植わり、境内の真向かいが象山(きさやま)で、高市連黒人がそこで詠んだ歌は

 大和には 鳴きてか来(く)らむ呼子鳥
  象の中山呼びぞ越ゆなる  万葉集巻1−70
 桜木神社の本殿

 「桜木神社」の朱色の社殿は、拝殿から少し石段を上がった山の斜面に在り、1702年(元禄15年)に建てられた物で、小さいながら写真の様にりっぱな社殿ですが、神社様式は余り例を見ない「生田魂造」の様な本殿です。また写真には写っていませんが、石垣の右側に万葉歌人、山部赤人の歌碑が在ります。

 み吉野の 象山の際(ま)の木末(こぬれ)には
  ここだも騒く 鳥の声かも  巻6−924

山部赤人は、生没年未詳、出自、経歴とも不明ですが奈良時代の歌人で、聖武天皇に仕えた下級官使です。




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