吉野  その14

 金峯神社(TEL 0746-32-3081)

 「吉野水分神社」から尾根道を1.5キロ上ると、「竹林院」から西側を上って来たバス道と合流し、木の大鳥居「修行門」が建っていて、門をくぐって坂を上ると、「金峯(きんぷ)神社」が鎮座しています。1007年(寛弘4年)8月11日藤原道長が来て埋納した重文「金銅経筒」を蔵し、祭神は吉野山の総地主神、伊邪那美神の吐いたヘドから生れた金山彦命、一名金精明神と云い、吉野八社明神の随一。なお、金峯とはこの辺りから大峯山への総称で、古来より地下に黄金の鉱脈が有ると信じられ、宇治拾遺物語にここで黄金を得たとあり、また、ここから左の小道を下ると、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」が建っています。
 源九郎判官義経の「隠れ塔」

 ここは大峯修行場の1つで、「隠れ塔」に入って扉を閉じると、中は真っ暗闇になります。そこで、これから大峯山へ登る山岳修行者は、神官の先導に従って

 吉野なる深山の奧のかくれ塔
 本来空のすみかなりけり

と唱えながら塔内を巡ります。なお、この塔には昔、1185年(文治元年)11月源義経が隠れ、 追っ手から逃れるため屋根を蹴(け)破って外へ出た為、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」とも云い、また、近くの「龍が谷」は義経が逃げる時、馬を捨てた所です。
 西行庵(さいぎょうあん)

 「金峯神社」の西側の山道を300m登って、尾根の上から「奧の千本」桜林の急坂を左へ下ると、「苔清水」が湧き出ており、そこから右へ行くと、台地に「西行庵」が在ります。平安末期〜鎌倉初期の歌人、僧の西行法師は、元鳥羽院下の北面の武士・佐藤義清(のりきよ)、23歳で出家して、ここで3年間隠棲し、新古今和歌集に94首の歌を残し、吉野山の歌は

 とくとくと 落つる岩間の苔清水
 汲み干すまでもなき住みかかな  西行

明治26年3月14日島崎藤村もここを訪れ涙する。
 「青根が峰」から東方を望む

 「金峯神社」から更に南へ登ると苔蒸した杉皮葺の「西行庵」が在って、吉野山の最後は 標高858mの「青根が峰」です。なお、ここから大峯登山道で修験者が登られる山上ケ岳までは約9 時間掛かりますが、吉野では一番高い「青根が峰」は、吉野の分水嶺で、この峰に降った雨は、東へは 落差50mの蜻蛉(せきれい)の滝を下って音無川へ、南は黒滝の丹生川へ、西は下市の秋野川へ、 そして北へは万葉集に詠われた「象(きさ)の小川」へと流れ、宮滝で吉野川へ合流しています。また、 宮滝から眺める「青根が峰」は、綺麗な三角錐で、正に神が降り立つ神奈備に相応しい山です。なお、 写真中央の山は霊峰「高見山」です。
 吉野山の桜

 写真の桜は、「上千本」の1本で、「花矢倉」辺りの桜です。なお、吉野の桜は開花の時期をず らしながら約1ケ月に渡って麓の「下千本」から順次「中千本」「上千本」「奧千本」と山の尾根から 谷一面に咲き、その数200種約3万本とされていますが、そもそも吉野が日本一の桜の名所となった のは奈良時代の少し前、役行者が金峯山寺蔵王堂の蔵王権現像を桜の木で刻んでからで、吉野では桜の 木を神木として保護し、1594年(文禄3年)豊臣秀吉が吉野花見の折りに苗木1万本を寄進して、 大正元年吉野山は国の史跡、名勝、天然記念物の指定を受けました。なお、吉野の桜は殆どが、淡い ピンクの「シロヤマザクラ」です。




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