宇陀市榛原から菟田野辺り  その3−2
 青蓮寺(TEL 0745-84-2455)

 宇賀川の源流に架かる宝珠の付いた小さな無常橋を渡って、日張山(標高595m)中腹の長い参道を上がると、やがて目の前が開けた所にひっそりと佇んでいるのが、浄土宗の尼寺、日張山「青蓮寺(せいれんじ)」です。760年(天平宝宇4年)右大臣藤原豊成の娘、16才の中将姫(ちゅうじょうひめ)が継母・照夜ノ前の讒言によって日張山に捨てられ、哀れに思った家臣の松井嘉藤太春時とその妻・静野に保護されて、ここで草庵を結び、閑居練業6年6ケ月念仏三昧の生活を送り、後に父と再会し、「再会寺」とも呼ばれる世阿弥(ぜあみ)の謡曲「雲雀山」の舞台で、中将姫の画像や彫像、曼陀羅図などがあります。
 「松井嘉藤太春時」と妻「静野」の墓

 「青蓮寺」の鐘楼の横に「松井嘉藤太夫婦」の墓があります。なお、姫は父豊成(藤原武智麿の息子で、横佩の右大臣)がこの地に狩りに来たとき助けられ、奈良の都へ帰りました。しかし、菩提の志止みがたく遂に「当麻寺」へ入り出家剃髪し、「法如尼」と名乗り、その後「当麻曼陀羅」を感得し、27才の夏に、再び「日張山」へ登って、一宇の堂を建立し、自からの影像と嘉藤太夫妻の形像を手づから刻み安置して、ひばり山「青蓮寺」と名付、永く尼主の道場とされた由緒ある山寺ですが、1784年(天明4年)火災にあって、1815年(文化12年)水害にあい、今の本堂は、1847年(弘化4年)に再建されました。
 桜実神社(TEL 0745-84-2521)

 「青蓮寺」から「宇賀志川」沿いに山を下り、国道166号線へ出たら南の佐倉峠の方へ上がって、バス停「桜実(さくらみ)神社前」から右の細道を西へ入って行くと、車なら行き止まりの右に「桜実神社」が鎮座しています。祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)で、口伝によれば、神武天皇東征の砌、皇軍が「菟田の高城」に駐屯して、その四方に定めた神籠の1つで、神社明細帳によると、当社は「天王宮」とも称し、宇陀市菟田野佐倉小字ミヤの「八坂神社」と同境内社の「愛宕神社」、小字紅葉の「十二社神社」と同境内社の「秋葉神社」、小字嶽(だけ)の「弁財天」を合祀しており、例祭は毎年10月10日です。
 桜実神社境内の「八つ房杉」

 桜実神社の境内にある杉の巨木、国指定天然記念物「八つ房杉」は、その昔、初代神武天皇が東征の折、大和平定のため宇陀の高城(たかしろ、菟田野町佐倉高城)に陣営を張っていた時に植えられたものと伝えられ、古事記にも「宇陀の高城に注連縄(しめなわ)はる・・」と載っています。1つの株から伸びた大、小、8本の幹が互いに絡み合って、ある幹は、途中で1本になり、再び分かれるといった極めて珍しい樹形で、端の巨大な幹は地面を這いながら天に向かって頭を持ち上げ、かつ、普通の杉とは異なり美しい紅色をして人々の目を引きます。推定樹齢二千年で、幹周り9m、樹高14mで、枝は大きく天を覆っています。
 菟田(うた)の高城(たかき)

 国道166号線から「桜実神社」へ入って来た時、神社の手前に北へ辿る細い道があり、そこを登ると、木立の中にある「神武天皇東征、菟田の高城」へ至ります。なお、「古事記」によると、神武天皇東征時、八咫烏に導かれて熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城跡で、大伴と久米の軍団が、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討ち取った時、久米歌(くめうた)で歌われました。

 宇陀の高城に 鴫罠(しぎわな)を
 張って 俺が待っていると 鴫は
 かからず 大きな鯨が かかった ・・




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