宇陀市榛原から菟田野辺り  その4
 国史跡「森野旧薬園(TEL 0745-83-0002)

 宇陀市菟田野から国道166を西へ向うと、宇陀市大宇陀へ入り、宇陀川の橋の手前で右へ折れて、国道370を北へ行くと、道の右側に「元祖吉野葛」の看板を揚げた「森野本舗(森野旧薬園)」があります。薬園創始者・森野藤助は、1690年(元禄3年)に生まれ、27才で御薬草見習いとして、幕府薬草御用方・植村左平次と近畿北陸の薬草を採取し、以来数年に亘り採薬に従事したので、八代将軍吉宗から、当時貴重な薬草を小石川植物園から下附され、藤助翁がそれを自宅の裏山へ植え、1720年頃(享保年間)薬園として創始の後も、幕府の薬園の補助機関として御用を勤め、本草学の「松山本草」を著作しています。
 春日神社の入口「春日門跡」

  「森野旧薬園」から街道を北へ行って、「薬の館」の先を右折すると、秋山城跡の西麓に「春日神社」が鎮座していますが、参道の入口に「春日門跡」があります。松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置し、現在、門跡に虎口(出入口)を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っていますが、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭で、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られ、また、現存する櫓台は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築で、大手筋を貫いた視線が集中する位置にあって、松山城下町の象徴的な建造物でした。
 宵宮のない旧村社「春日神社」

 参道を上がると、1405年(応永12年)に足利義満が宇陀郡を春日社に寄進され、それに伴って勧請された「春日神社」が鎮座し、境内に旧秋山城の天守閣からの抜け穴跡や、正応4年(1291年)井行元(いノゆきもと、井行末の孫)作の水盤があります。なお、1694年(元禄7年)9月29日に織田信長から数えて五代目松山藩主信武38歳が乱心し、重臣田中五郎兵衛を切り殺し、一ヶ月後に自害して果てたお家騒動「宇陀くずれ」が宵宮で、後に、1695年(元禄8年)長男の信林17歳が跡目相続を許され、禄高三万石を二万石に削り、丹波市柏原町へ国替えで転封されましたが、今でも当社に宵宮はありません。
 旧松山城天守閣跡

 「春日神社」の参道の脇から山へ登ると、松山城跡(古城山、標高472m)です。初めは南北朝時代に北畠氏の家臣として沢氏と共に勇名を馳せた宇陀三将の一人、土豪秋山氏の居城で、秋山城と呼ばれたが、1585年(天正13年)豊臣秀長の大和入国で秋山氏が伊賀へ追放され、秀長の家臣伊藤掃部頭が入城、翌年紀伊で討死した伊藤氏に代り加藤光泰が入城、同16年羽田長門守、多賀出雲守と代って、1601年(慶長6年)福島孝晴(正則の弟)が入城し、松山城と改名、1615年(元和元年)福島氏の改易で天守や本丸・二の丸等が破却され、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が3万余石で入部、陣屋は山の下です。
 慶恩寺(TEL 0745-83-0122)

 「春日神社」から下りて、街道(国道370号)を北へ向うと、宇陀市大宇陀町春日に秋山氏の菩提寺、浄土宗「慶恩寺(けいおんじ)」があります。寺伝によると、695年(持統天皇9年)吾城(あき)行宮を賜って堂宇としたのが始りで、1186年(文治2年)4月俊乗坊重源奈良の大仏再興の際、伽藍指図の5分の1の試みとして当寺を建立し、松谷山菩提院「慶恩寺」と称され、桃山から江戸時代にかけて寺運大いに栄え、末寺20数ヶ寺を有したが、1860年(安政7年)本堂・観音堂を焼失、なお、手入れがよく行き届いた境内に入ると、奥まった墓所の一隅に石碑が並び、秋山城主秋山宗丹、直国の墓があります。
 国史跡「旧松山城西口門」

 「慶恩寺」を出て、街道(国道370号)の1つ西側の道をまた南へ向い、右に折れて西へ向うと、宇陀川の手前に旧松山城大手筋の西口関門である「旧松山城西口門」が建っています。建てられたのは江戸時代の初期で、織田氏四代の頃の城下の名残を最もよく留め、全て黒塗りされているので土地の人々は「黒門」と呼んでいますが、造りは正面の柱間十三尺五寸、兩内開きになっていて左右に袖垣を付けた薬医門の形をとっており、また、門を含む地域は桝形になって、旧位置に現存する城下町の門として珍しく、簡素な造りの内にも頑丈さを保ち、門の前後の狭い通路が直角に幾重にも作為的に曲げられ防備の工夫が見られます。
 光明寺(こうみょうじ)の山門

 また、「黒門」から「宇陀川」を渡って、旧道を北へ行くと、街道の左(西)側に融通念仏宗「光明寺」の山門に「遍照山」と書かれた額が見えます。山号が遍照山朝徳院で、創建は第59代宇多天皇の頃と伝えられ、1403年(応永10年)大念仏宗本山恵観浄善の弟子永欣(えいきん)を中興として、1586年(天正14年)に法俊上人が再興されました。なお、現在の本堂は、1793年(寛政5年)の造立で、内陣に藤原時代の本尊「阿弥陀如来立像」、四天王の一神「多聞天立像」、「八幡大菩薩」、「大日如来」、江戸時代の「永欣和尚坐像」などを安置され、また、境内の観音堂に「十一面観音像」を安置しています。
 臨済宗大徳寺の末「徳源寺」

 「光明寺」から西へ行って、国道166号線を横切り、バス停「西山」の所から更に西へ向かって、三叉路の角に建つ近畿自然歩道の標識に従って北の方へ進むと、長泉山「徳源寺(とくげんじ)」へ至ります。1632年(寛永9年)織田常真公信雄(のぶかつ、織田信長の次男)の菩提を弔うため4男の織田出雲守高長が京都北野の古寝殿を移築したものを本堂として創建し、開山は天祐仏海祖燈禅師、境内奥の木立の中に藩祖信雄から、高長、長頼、信武まで4代の五輪塔が家臣及び歴代住職の碑を配した中に建っています。なお、昔の本堂は今ありませんが、創建当時の豪華な唐門は、犬山市の「有楽苑」に移転し残っています。
 織田公墓所の「五輪塔」

 「徳源寺」の南側へ上ると、織田公墓所です。織田信雄は、1558年(永禄元年)信長の次男として生まれ、1582年(天正10年)6月2日父が本能寺の変で明智光秀に打たれると、6月15日信雄は明智秀満の守る安土城を攻め、明智の残党狩りを行い安土城天守を焼き、後に信雄は清洲や伊勢長島の城主で、1584年(天正12年)家康と結び小牧・長久手で秀吉と戦ったが勝敗は決せず和睦し、秀吉の政権下で大納言、内大臣に昇進。入道して常真、具豊、信意、信勝と名乗り、大阪夏の陣の後、宇陀松山3万余石を貰い、六男高長が赴任し、信雄は京都で、1630年(寛永7年)4月30日に72歳で亡くなりました。
 旧県社「阿紀(あき)神社」

 「徳源寺」から南へ戻り、国道166号線へ出ないで、松源院民芸館、天益寺の横を通り更に約10分で「阿紀神社」に至ります。「倭姫命世記」によると、崇神天皇60年倭姫命が天照大神を祀って、宇多秋志野(阿騎)宮で4年間奉斎したとありますが、当社の古文書によれば、「神武天皇紀州熊野の難所を越し、大和国宇陀へ出て当地阿紀野において御祖の神(天照大神)を祀り、国中へ押出す時、朝日を背に日神(天照大神)の威勢をかり賊軍を打ち払い、武運を開かせ給ふ」とあって、祭神は天照大神、他三柱で、社殿は神明造。また、境内に能舞台があり、宇陀の地が元和以来織田藩の治所で三代長頼の時に能を広めました。




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