北山の辺の道  その4

 白亳寺の「御影堂」

 写真は本堂と宝蔵の中間に建つ「御影堂」ですが、本堂の南側、「五色椿」の更に南側、 お手洗いの横、境内の南の端には笠金村の万葉歌碑も建っています。

 高円の野辺の秋萩いたずらに咲きか散るらむ
 見る人無しに     万葉集巻3−231

この歌は、715年(霊亀元年)秋9月に志貴皇子が亡くなられた時に作られた挽歌、 巻2−230に対する反歌ですが、第38代天智天皇の第7皇子志貴皇子のお墓(春日宮天皇陵) は、白亳寺の裏に在る高円山のその裏側で、白亳寺からは東3キロの所に在ります。
 白亳寺の東裏の「高円山」

 写真の左側の竹藪の左に「白亳寺」が在り、中央で一番高い所が高円山(標高432.2m)です。少し白い部分が、盆の8月15日に焚かれる「大文字」の「大」の字の跡です。高円山は、大伴坂上郎女さんも

 ますらをの 高円山に追(せ)めたれば
 里に下りける むささびぞこれ 巻6−1028

と739年(天平11年)天皇の遊猟に付いて行った時、万葉集で詠われていますが、郎女さんは安麻呂の娘で、旅人の妹です。なお、今でも高円山から北側の春日山原始林にかけ、ムササビが夕方飛んでいます。

 宝蔵院流の流祖、覚禅房胤栄の墓

 「白亳寺」から「山の辺の道」を逸れ、真西へ進み県道80号「奈良名張線」のバス通りへ出るまでに、「覚禅房胤栄の墓」と書かれた表示に従って、高台へ上がると写真の様なお墓が建っています。覚禅房法印胤栄(かくぜんぼうほういん、いんえい)は、奈良の古武道、興福寺宝蔵院流の槍術の流祖で、彼の命日は8月26日(1607年没)ですが、当日は早朝から胤栄・胤瞬さん宝蔵院流一門の方々が眠っておられる墓地に興福寺の住職を始め、門人衆達がお参りして、毎年法要をされます。なお、宝蔵院流の十文字鎌槍は月剣と云われ、胤栄が稽古中に猿沢池に映る三日月を見て悟り、穂に六寸の三日月形の鎌が付いています。
 奈良県護国神社(TEL 0742-61-2468)

 「白亳寺」から「北山の辺の道、東海自然歩道」の道標に従って南へ行き、「県道80号奈良名張線」を越えると、鹿野園(ろくやおん)町です。粗末な木の鳥居の「八坂神社」が鎮座している辺りから「山の辺の道」を少し外れて西へ行くと、鬱蒼とした森の中に「護国神社」が鎮座し、当社は、大東亜戦争勃発後の昭和17年に創立され、明治維新から大東亜戦争まで国難に殉じた奈良県出身の陸海軍戦没者二万九千百十柱の英霊を祀っています。彼等は、日本民族の発展と国家の隆盛を祈り、日夜軍務に精進し、生を捨て義をとる崇高なる犠牲的精神、また、旺盛なる責任観念と不撓不屈の精神を陶冶し幾多の危機に挺身しました。
 油かけ地蔵尊(子授け地蔵、鼻かけ地蔵)

 古市古墳群の真っ直中に位置し、万葉故地の「高円(たかまど)の野」に建つ「護国神社」から更に西へ行くと、「古市老人憩の家」のちょっと西に「油かけ地蔵尊」が祀られています。このお地蔵さんは、昔、大雨が降り続き、直ぐ北を流れる「岩井川」が溢れた時、川上から浮きつ沈みつしながら流れて来ました。見つけた人が引き上げようとしましたが、信心が浅く上がらなかった所、信心深い老人が何の苦もなく引き上げると、その夜、地蔵さんが夢枕に立って「わしは子を授ける地蔵だ、毎日種油をかけてお参りすれば、必ず子を授ける」と告げました。それから老人が毎日種油をかけると、婆さんに可愛い子が授かりました。
 青井神社(くさ神さん)

 「油かけ地蔵尊」から西へ行って、国道169号を渡り、更に西へ250m行くと、南北の細い道が昔の「上ツ道(かみつみち)」、旧道「長谷街道」ですが、その旧道を南へ約2.2キロ行った所に「帯解寺」があります。その途中、約400m程手前が「登り坂」で、左側の少し奥に小さな「青井神社」が鎮座しています。登り坂の「くさ神さん」と呼ばれていますが、「くさ」とは、皮膚病の疱瘡(ほうそう)、天然痘の事で、昔、小野小町も「くさ」にかかり、夢のお告げで21日間、ここの「くさ神さん」へお参りしたら、「くさ」が治ったので、彼女は頭髪を壷に入れて納めたそうで、今もそれが残っているらしいが?




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