奈良町  その13


十輪院(TEL 0742-26-6635)の南門

「法徳寺」の東隣が真言宗醍醐派の「十輪院」で、通りに面して菱形に組まれた竹垣を配し、瓦葺屋根を乗せた築地塀の中央に国重文の「南門」が建てられ、桁行3.22m、梁間2.41m、棟高4.32m、切妻造、本瓦葺の四脚門で、軒周りが胡粉(ごふん)塗、その他は総丹(そうに)塗りが施され、斗きょう、板蟇股(いたかえるまた)、虹梁(こうりょう)などが鎌倉期の特色を良く表して、軽快で趣の有る門です。南門を入ると左手が「護摩堂」で、堂内に平安末期の作、国重文の「不動明王像と二童子立像」が祀られ、また、南門を入った右手が庭園で、ハス池の周りには十三重塔や曼陀羅石、不動明王石像が並んでいます。
 十輪院」の国宝の「本堂」

 「十輪院」は、元正天皇の勅願により朝野宿禰魚養の創建と伝えられ、重文の「南門」を入って直ぐ目の前に建つ堂が「本堂」で、勾配のゆるやかな本瓦葺の屋根を持つ寄棟造の優美な建物で、正面に奥行き1間の吹き放しの広縁が設けられ、軒の梁を支える美しく頑丈な蟇股(かえるまた)が、一際目を引き、正面の蔀(しとみ、板)戸、格子戸、円柱が程良く調和を保って用いられ、全体に軒や床が低く小ぶりですが、中世の住宅を思わせるしっとりとした建物は、ドイツの建築家ブルーノ・タウトも称讃しています。本尊は、重文の石仏龕(せきぶつがん)に半肉彫りの地蔵菩薩で、脇侍に釈迦如来と、弥勒菩薩も彫られています。
 「十輪院」の「魚養(なかい)塚」

 「十輪院」は、元「元興寺」の一院で、800年頃(延暦年間)医師で書家の朝野宿禰魚養(あさのノすくねなかい)が住し、「宇治拾遺物語」巻14によると彼の父は、714年(養老元年)3月遣唐留学生で入唐し、17年間在唐した吉備真備(きびノまきび)で、現地妻との間に子が出来たが、真備は帰国の際、妻子を置いて来たので、妻が子の首に「遣唐使の子」と書いた札を結び、海に流すと魚が寄って来て、子を日本まで運びました。後に「魚養」と名付けられた子は立派な坊さんに成って、入唐前の空海に書を教え、806年(延暦25年)に没した彼の墓と云う五輪塔「魚養塚」が、県重文「御影堂」の東側に在ります。

 興善寺(TEL 0742-23-7007)

 「十輪院」の東隣が浄土宗法輪山「興善寺(こうぜんじ)」です。南門から北門へ抜けられる「つつぬけ寺」で、元は元興寺の子院、田原から来た本尊「阿弥陀如来立像」は、昭和37年胎内から法然上人と門弟らが書いた消息文書、漆塗りの筒型納骨器等が出て、大騒ぎになり、いずれも国重文に指定されているが、それまで法然上人直筆の書状が無い物と云われていたので、貴重な発見でした。また、境内墓地には、江戸時代初期の物を始め、室町時代の石塔や石碑が数多く在り、鎌倉時代の作で特に大きな三尊石仏は、阿弥陀如来を中心に、脇侍に観音菩薩と地蔵菩薩を配して、三尊の彫り方は多少不調和ですが、珍しい石仏です。




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