融通念仏宗の郷「安堵町」  その4

 「馬場(ばば)塚」

 「中家」および「石田氏」の所から南西へ行くと、窪田の集落が途切れた田圃の中に大きな1本の木が植わっていて、周囲10mほどで少し土が盛られた塚があります。笹竹が刈り込まれた所に「五輪塔」が木の根元に建っています。戦国時代に甲斐「武田勝頼」の重臣「馬場美濃守信春」が、1575年(天正3年)三河「長篠の合戦」で、織田、徳川の連合軍により、特に当時の戦術において画期的変革をもたらした織田軍の鉄砲隊による三段撃ちによって敗死したのを祀る供養搭と云われ、供養塔の一面に「前敬礼司民部少輔氏勝墓」とあり、二面以下に馬場信春一代の戦歴が刻まれ、また、近くに馬場姓を名乗る子孫の家があり。
 「杵築(きつき)神社」の「七重ノ石塔」

 「馬場塚」から更に西へ行くと、安堵町大字窪田の畑の中で、こん盛りとした木立の中に「杵築神社」が鎮座しています。なお、ここ以外にもまだあちこちに「杵築」と名の付く神社はありますが、当神社の創建は、平安時代末期1183年(寿永2年)4月で、御祭神は、素盞鳴命(すさのうノみこと)です。また、本殿は、1810年頃(文化年間)奈良春日大社摂社「若宮」の旧本殿を拝領したものですが、当神社は、昭和35年大和川改修工事により現在地に移転して来ました。境内の木立の中に極めて古風な推古式(すいこしき)古代人造「七重ノ石塔」が建っていますが、創建当時の平安時代末期の造立と云う説があります。
 堤防上から麗光山「常徳寺」を見る

 「杵築神社」から南へ行って、突き当たったら少し東へ戻ると、「大和川」の堤防の手前に麗光山(れいこうざん)「常徳寺」があります。山門を入って左奧に、真北向一願「石ノ地蔵尊」が立っています。願い事は1つで、真言は「オンカタカア、カビサンマエ、インソワカ」です。なお、「大和川」の堤防を上がって、桁長100mもない「馬場尻橋」を渡ると奈良県磯城郡「川西町」で、また、下流に「太子橋」が架かっていますが、この辺りの堤防上の道は「車両交換場所」で、洪水の時に水防活動を効率良く、かつ速やかに実施するため、水防資財運搬車両の堤防天端における待機場所や、方向転換場所として使われています。




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