春日大社  その3

 春日大社の摂社「若宮神社」

 若宮の祭神は、平安時代の中頃、1003年(長保5年)春日大社の本社第四殿に祀られている比売神の所に小蛇の姿で現れた水の神「天押雲根命(あめノおしくもねノみこと)」で、始めは本社第四殿に比売神(ひめノかみ)と共に祀られていましたが、その後、若宮は本社中央の獅子の間に祀られ、平安時代の末、1133年頃(長承年間)洪水飢饉が相次いだので、これを救済する為、時の関白藤原忠通が水の神である若宮を、1135年(保延元年)2月27日現在地に新殿を造営して遷宮しました。そして、翌年保延2年 9月17日若宮の例祭おん祭り」が始まり、主催は明治維新まで興福寺衆徒大衆の僧兵が行いました。
 春日大社摂社若宮神社の「イチイガシ」

 また、「若宮神社」から「上の禰宜道」を南に辿ると、春日大社末社「金龍神社」へ上がる道の直ぐ側に温暖な地方に生育し、実は「ドングリ」で食べられる奈良市の木に指定の「イチイガシ」が植わっており、推定樹齢300年、樹高18m、幹周り4.85m。ブナ科で常緑高木の「イチイガシ」は、春日山には幹廻り3m以上の大木が23本もあるけれど、それらのほとんどは中が空洞なのに、ここ若宮神社の「イチイガシ」は、青年のように勢いの良い巨樹で、自ら小枝を払い落としながら生育するため、幹は垂直に立ち、葉の裏に黄褐色で短いビロード状の産毛が生えているから直ぐ判ると思います。なお、「県新公会堂」から「春日大社」の方へ向かうバス停「県公会堂」の所にも1本植わっているけど、地面を這って伸びた根は、逞しく盛り上がった筋肉の様で、カシの木の仲間ではその名の通り一番大きく、幹が真っ直ぐな為、昔から建築、船舶、車両の用材として切り出され、県下でもこの様な巨樹の「イチイガシ」は余り見られません。
 春日大社の国重文「楼門(南門)」

 春日大社の社殿と門は、1382年(永徳2年)の大火後に再建され、部材は比較的新しいけど、その様式は王朝の姿を忠実に伝え、奈良朝時代に栄えた朱塗りもあでやかな平城京の宮殿を今に見る様で、南面する「楼門(南門)」は、高さ12m、入母屋造、桧皮葺、左右に取り付く「廻廊」は、古くは鳥居と瑞垣(みずがき)、または、築地塀(ついじべい)でしたが、平安時代末期の1179年(治承3年)今に見るような複廊形式に改築されて、その配置が左右対称で無いのは、東側の御蓋山の斜面に自然の地形を損なうことなく建てられたためです。なお、「楼門」の前に小さく柵で囲んだ中に、「神石」が埋まっています。

 「林檎の庭」から見た「中門」

 「楼門」を入った直ぐ正面に重文の「舞殿(まいでん、西三間)と幣殿(ぬさでん、東二間)」一棟が建ち、桁行五間、梁間三間の一重流造で、1650年頃(慶安年代)の造替の際、西隣の「直会殿(なおらいでん)」と共に建て替えられ、通常はそこから「林檎(りんご)の庭」越しに春日造りの屋根だけが見える1〜4棟の「本殿」を参拝しますが、本殿の特別参拝は、初穂料が500円で、「林檎の庭」へ入ると、東側に五代将軍綱吉の母・桂昌院が奉納された「銅製燈籠」が建っていて、笠に徳川家の「三ツ葉葵」と本庄家の家紋「繋ぎ九ツ目」が交互に彫られ、火袋に飛天が舞っています。また、西側に廻ると「捻廊」です。
 「幣殿」前の「林檎(りんご)の木」

 なお、「本殿」を囲む「東西の御廊」の中央が重文の「中門」で、その前に建つ朱色の柵を「稲垣」と云い、神前にお供えする稲穂を、2月17日の祈年祭、3月13日の春日祭、11月23日の新嘗祭に掛け、段を下りた「幣殿」前の庭を「林檎の庭」と云って、平安時代シルクロードを通って我が国へ初めて入って来た林檎の木を、1170年頃に第80代高倉天皇がこの庭の南東角にお手植えになり、庭では、春日祭を始め、種々の祭礼が行われ、神楽、舞楽、和舞(やまとまい)等が舞われます。また、東に樹齢700年の「イチョウ」が植わっており、幹周り5.3mで、落葉時には、その辺り一帯黄一色の絨毯に染まります。
 春日大社「社殿の大杉」

 また、「春日大社」の燈籠には、神前型、柚木型、御間型、祓戸型、験記型等があり、「稲垣」の前の燈籠は「大宮型」で、通常「春日燈籠」と称しており、その並びの左側に春日大社の境内で随一の「大杉」が植わっています。推定樹齢800年、樹高24m、幹周り8.85mで、昭和30年代前半までの境内は、この様な杉の大木が生い茂り、昼なお暗い原生林でしたが、昭和36年9月16日(土)の第二室戸台風で多くの木がなぎ倒され、それから境内が明るくなったけど、社殿前のこの「大杉」は、富士山の裾野の様な形をした根元ががっちりと巨樹を支え、台風による倒木を免れました。なお、世界遺産に登録されて、天然記念物の春日山原始林は、伐採が一切禁じられているが、極まれにある倒木や立ち枯れた「春日杉」が奈良銘木として知られ、心材はやや赤色ですが、時が経つと茶褐色に変って渋い味わいを醸し出し、樹脂成分をかなり含んで美しい光沢を放つ春日杉の「笹杢」は、天井板や落とし掛け等に用いられて、尊重されます。
 重要文化財「捻廊(ねじろう)」

 また、「林檎の庭」の前の「幣殿(東二間)」と「舞殿(西三間)」は一棟で、その西側に建つのが重文の「直会(なおらい)殿」で、推定樹齢600年、幹周り3mの柏槇(真柏)が、「直会殿」の屋根を貫いています。そして、「直会殿」の北隣に建っているのが「移殿(内侍殿)」で、20年毎に本殿を造り替える「式年造替」の折、祭神がお移りになり、普段は内侍が詰めていたので、「内侍殿」とも呼び、その前から「本殿」の方へ通じる廊を「捻廊」と云い、春日祭の神殿奉任をなさる内侍(斎女)が昴殿するための廊です。元は真っ直ぐでしたが、江戸時代に飛騨の名工左甚五郎が改修し、斜めに捻じったと云われています。
 御神木「七種の寄生木(やどりぎ)」

 更に「捻廊」の前を通って、奥(北)へ向かうと、春日大社末社「風宮(かぜノみや)神社」が鎮座しています。良い事は風によりもたらされ、悪い事は風によって吹き祓う風神を祀り、色々な願い事をお取次ぎ頂く神様で、昔から「こより」に願い事を書き、初穂料200円を払って供える習わしがあります。また、祭殿の隣に植わっている御神木は、「いす」「ふじ」「つばき」「なんてん」「もみじ」「さくら」「にわとこ」の「七種の寄生木(やどりぎ)」で、「風宮神社」の風の神様が七種の種を運んで来たと伝えられ、古来より、子授けの霊験があらたかな御神木として、子宝成就ご希望の方がこの御神木の前で祈願します。
 延命長寿の春日大社末社「多賀神社」

 末社「風宮神社」の更に置くに末社「椿本神社」が鎮座し、その西隣に、1146年(久安2年)鎮座の春日大社末社「多賀神社」があります。鎌倉時代に、東大寺中興の祖俊乗坊重源が80歳の時、「東大寺」再建の成功を伊勢神宮に参拝して、17日間祈ると、天照大神が示現して、祈願するなら天照大神の父神を祀る近江の「多賀社」へ参拝せよ。と云われたので、重源が早速「多賀社」へ赴き、額づいて祈願すると、神殿より一片の木の葉が舞い降り、虫食いで「莚」の字を表していました。「莚」は「廿延」と書き、今の80歳より更に20歳も寿命が延びるご神託で、彼は100歳まで生きて、再建の大事業も成功しました。
 国重文「直会殿」の「釣燈籠」

 写真の右の建物が、「林檎の庭」の西側に位置する 「直会殿(なおらいでん)」で、軒に「釣燈籠」吊り下がっています。春日大社には、これらの「釣燈籠」も1千基在り、「石燈籠」と合わせて約3千基近くの「燈籠」が、毎年2月の節分と、8月14・15日の両日「万燈籠」に点灯され、写真の左下を流れている溝の様な「御手洗川」に照り映えます。なお、「御手洗川」は、鎌倉時代に春日山から流れる浄水を廻廊の内に引き入れ、昔は参拝者がそこで手を洗いました。 また、写真の左側に見える朱色の軒は「西の回廊」の庇ですが、「直会殿」の南側には摂関近衛家の献木で樹齢約700年の「砂すりの藤」も植わっています。
 「西の回廊」の国重文「内侍門」

 本殿「西の回廊」にも朱も鮮やかな写真の様な門が北から順に「内侍門」「清涼門」「慶賀門」と3門が並び、創建は1179年(治承3年)、1門1戸門、切妻造り桧皮葺で、昔は「内侍門」が春日大社に仕えていた内侍の専用門、「清浄門」が僧侶の専用門で、「慶賀門」は藤原氏の専用門でした。なお。一番南の 「慶賀門」だけ天井が格組天井張りで、他のいずれも天井に格子の格組は在りません。また、「直会殿」と「砂ずりの藤」の間を通り、「慶賀門」から西へ出て段を数段下りると、南から北へ竃殿(へついどの)、酒殿(さかどの)、桂昌殿、新建(しんだて)などの古い建物が並び、北へ進むと「水谷道」へ向います。
 春日大社の摂社「水谷神社」

 「水谷道(みづやみち)」をちょっと北へ進んで、突き当たった所が春日大社境内の北端で、写真の様に水谷川(下流が、吉城川)を背にして三間社流造りの「水谷神社」が南向きに鎮座しています。ご祭神は、素盞鳴命、大巳貴命(おおなむちノみこと)、奇稲田姫命ですが、古くは牛頭(ごづ)天王と云われ、悪疫鎮圧の医薬の神です。例祭は毎年4月5日の「鎮花祭(はなしづめさい)」で、1288年(正応元年)の創始と伝えられ、悪疫を払う祭りです。また、「水谷神社」の真ん前に女性のホトによく似た「子授石」も在って、霊験あらたかです。なお、写真の大樹の角を 曲がり、橋を渡って石段を上がると「若草山」です。




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