生駒山周辺と信貴山まで  その3

 石仏寺(せきぶつじ TEL 0743-77-8474)

 「暗峠」は又後にして、国道308号線、旧暗越奈良街道を東へ下ると、坂の途中右に融通念仏宗岩生山(がんしょうざん)「石仏寺」があります。鎌倉時代創建で、本尊は「阿弥陀如来坐像」、総高2.08m(像高1m)の石造で、本尊、後背、蓮台を別々の花崗岩で造って組合せ、光背の左右に半肉彫りの観音と勢至菩薩像を刻んで、鎌倉時代の永仁2年(1294年)の銘があり、生駒を中心に活躍した伊派の石大工・伊行氏(いノゆきうじ)の作です。なお、本尊の左右にも阿弥陀と地蔵の石仏立像があり、また、境内には、永禄元年(1558年)の銘が刻まれた「六字名号板碑」や鎌倉時代後期の五輪塔などもあります。
 応願寺(おうがんじ TEL 0743-77-8809)

 更に国道308号線を東へ下って、「西池」の北側の道を歩き、ちょっと左側の奥まった所の石段を上がると融通念仏宗祈求山(ききゅうざん)「応願寺」です。本尊は「千手観音菩薩立像」、また、境内の東側にある地蔵堂の「永仁地蔵」は総高2.06m(像高1.5m)の厚肉彫り、永仁二年(1294年)甲午九月十一日の刻字があって、伊行氏の作とされ、その他、高さ1.2m、天文十六年(1547年)の刻字がある「六字名号板碑」や、天文十八年の刻字がある「十三仏板碑」等も残っているが、「六字名号板碑」は、近くの有里台住宅地の中にもあって、それには、天正十三年(1585年)の刻字が彫られています。
 県史跡「美努岡萬(みのノおかまろ)墓」

 更に東へ行くと、青山台の外れ岡の上に「美努岡萬墓」があり、彼は、701年(大宝元年)山上憶良らと共に遣唐使で中国へ渡り、716年(霊亀2年)従五位下に叙されて、宮内省主殿寮の長官で、728年(神亀5年)68歳で没。墓は730年(天平2年)に営まれ、明治5年墓誌が土採り中の地元青年により見つかり、昭和30年国重文に指定されて、現在東京国立博物館に所蔵。墓碑は、明治11年に建立され、また、昭和59年の発掘調査で、岡萬の遺骨の一部が出土し、墳墓の構造は竪穴の四角い土壙(どこう)の中に遺骨を納めた木櫃(もくひつ)が安置され、その周囲を木炭で被い、土を積み上げた小さな墳丘です。
 宝幢寺(0743-77-8527)

 「美努岡萬墓」から南へ向い、西の暗峠へ上がる道(国道308号線)を横切って、更に南へ約400m行くと「むかいやま公園」「多目的グランド」の東に融通念仏宗龍護山「宝幢寺(ほうどうじ)」があります。行基の開基と伝えられ、1441年(嘉吉元年)記載の興福寺官務蝶疏(こうふくじかんむちょうそ)に初めて寺名が載っていて、重文の本堂は、入母屋造(いりもやづくり)で、桁行(けたゆき)5間、梁間(はりま)5間、室町前期の建立ですが昭和63年に解体修理されて昔の姿に復元され、秘仏「木造地蔵菩薩坐像」や、中国絵画の影響を受けた壁画「釈迦説法図(しゃかせっぽうず)」が内陣内に残っています。




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