生駒山周辺と信貴山まで  その7

  龍岳院(TEL 0743-75-4960)

 また「スカイラインいこま」に入らず、左(東)側へ廻ると直ぐに、生駒鬼取山、大和八大龍王総本山、真言宗「龍岳院」があります。薬師如来御出現の滝、霊場、薬師山「鶴林寺」の奥之院の役目をなし、その昔、役行者が前鬼と後鬼をこの辺りで捕縛し、改心させて儀覚、儀賢の2僧にして行者道に導き、大峯山へ同行した聖地で、後に弘法大師の空海や弟子の隆尊、また最澄もここで修行をして、真言密教を広め、明治時代までは「上山(じょうざん)」と俗称され、旱天(かんてん)時に雨乞いの祈願行事が行われました。本尊の十一面観音菩薩は弘法大師が祀って、御神水を錫杖で勇出させ、今もこんこんと湧き出しています。
 生駒山頂のテレビ塔

 応神天皇の時、百済より送られた馬を放飼していた生駒山(標高642m)は、山頂に五社のテレビ塔が建ち並び、尾根から西へ向って、桜並木の坂道を下ると、南北に通ずる「信貴生駒スカイライン」と平行に「生駒縦走歩道」が通じ、西側の中腹は「大阪府民の森ぬかた園地」で、北へ向かうと「辻子谷コース」を経て「大阪府民の森くさか園地」に至ります。なお、西へ下ると、「摂河泉コース」を経て、近鉄奈良線額田(ぬかた)駅へ至り、また、「生駒縦走歩道」を南へ辿ると、歩道の右側、フェンス越し雑木林の中に石仏12体が立ち、よく注意して歩かないと、ついうっかり見逃し、近くに髪切山「慈光寺」があります。
 日本の道百選「暗峠(国道308号線)」

 河内西国廿四番ホトトギスの名所、真言宗、髪切山(こうぎりさん)「慈光寺」を過ぎると「暗峠」の下です。明治25年大阪鉄道(現JR)が開設するまで奈良と大阪を結ぶ最短路「暗越(くらがりごえ)奈良街道」は、奈良の三条大路を起点として、矢田丘陵の榁木峠を経て「暗峠」を越え、河内へ入り、枚岡から大阪の玉造へ至る古道で、辺りの山を小椋(おぐら)山と称し、椋ヶ嶺(くらがね)が訛って「くらがり」になり、1694年(元禄7年)9月9日松尾芭蕉も奈良から暗峠を越え、10月大坂で亡くなりました。

 菊の香に くらがり登る 節句かな   芭蕉
 笠塔婆(弘法の水)

 「暗峠」から暗越奈良街道(国道308号線)を西へ下ると、直ぐ奈良県と大阪府の境界で、生駒市から東大阪市へ入り、街道に面し「笠塔婆」があります。堂内に何体かの石仏が立ち、右手奥の一きわ高い石柱が笠塔婆(高さ181cm)で、鎌倉時代中期の弘安7年(1284年)に建てられ、阿弥陀如来坐像の下に「南無阿弥陀仏」の六字名号を刻み、昭和53年6月東大阪市の文化財に指定されています。また、ここでは生駒山地(標高400m前後)にマグネシウムやカルシウムを含む硬水脈が連なり、澄水が湧き出し、通称「弘法の水」と呼ばれて、毎朝一升瓶や水筒を持った人達が飲料水として汲みに来る姿が見られます。
 暗峠観音寺の不動明王

 「笠塔婆」から更に狭い暗越奈良街道(国道308号線)を西へ下ると、急勾配の街道と交差しながら豊浦川の渓流が現れ、第一・第二暗峠橋を過ぎて、額田橋の手前で、街道の脇を少し入った所に「不動明王」が立っています。大日如来がいっさいの悪魔・煩悩を降伏させるために化現した教令(きょうりょう)輪身で、五大明王・八大明王の一、その主尊、不動の誓願は、人間の悩みの原因である無明を断ち切って、幸せをお授けになることにあり、私たちの信心が通ずるならば、必ず願い事が成就すると云われ、日本においては、平安時代初期の密教(空海が唐から持ち帰った)の成行とともに広く尊祟され、今日に至っています。
 松尾芭蕉の句碑

 また、急勾配の暗越奈良街道(国道308号線)を西へ下ると、街道の横に赤い「豊浦橋」が架かって、その下、紅葉が生い茂った豊浦渓流に滝が2つあり、更に坂道を下って、麓に近くなった所に「松尾芭蕉の句碑」が建っています。1694年(元禄7年)9月9日重陽の節句に奈良から暗峠を越して、大阪へ向う時、芭蕉が詠んだ句で、明治22年に六郷社の有志によって建てられましたが、1794年(寛政11年)芭蕉の追悼と、蕉風復古の気運が高まった時、豊浦村の中村来耜(らいし)が建てた古い句碑は、土砂崩れで永らく不明になり、大正12年掘り出され、今は麓の勧成院(かんじょういん)の境内に建っています。
河内一ノ宮「枚岡神社」

 暗峠を下ると、「枚岡神社」です。社伝によれば、神武東征の砌(紀元前3年)、国土平定祈願のため、天種子命勅命を奉じて現在地の東方、霊地神津嶽に、天児屋根命、比売神の二柱を奉祀されたのが始りで、650年(孝徳天皇白雉元年)平岡連等が現在地に神殿を造営し、山上より奉遷され、778年(光仁天皇宝亀9年)香取・鹿島より、経津主命、武甕槌命を勧請奉斎して以来、四柱が四殿に鎮座しています。古来朝廷の尊崇最も厚く、806年(大同元年)には封戸六十戸を有し、870年頃(貞観年中)に正一位を授けられ、春秋の勅祭に預り奉幣を受け、之を以って永例と定め、大社として最高の待遇を受けて来ました。




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