磐余(いわれ)の道と多武峯街道  その4

 桜井市文化「上之宮庭園遺跡」

 史跡「安倍寺跡」からまた大きな道を東へ戻って、桜井商業高校の東側を左(北)へ曲がり、住宅地へ入ると「上之宮庭園遺跡」があります。昭和61年から平成2年までの、五次の発掘調査で発見され、四面庇建物を中心とする掘立柱建物群とそれを囲む溝や柵が東と南側に造られ、西側には、写真のような半円形の排水溝をともなう方形石組遺構が造られて、一辺が約100mの方形区画の中に収まっているところから、古墳時代末期から飛鳥時代初期にかけての豪族居館の跡と考えられ、同時に出土した木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、ここの地名上之宮(うえのみや)から聖徳太子上宮(かみつみや)と考えられています。
 国史跡「メスリ山古墳」

 「上之宮遺跡」からまた大きな道路へ出て、南側の住宅の屋根越しに見えるのが「メスリ山古墳」です。西向き二段築成の前方後円墳で、全長224m、後円部は径128mで高さ21mですが、前方部の幅80mで高さ9m、後円部に比べ前方部が極めて低い古墳で、周濠は存在せず、前方部に45m幅の切り通しがあり、後円部の方形壇直下に遺体を納めた主室、東側埴輪列下に副葬品を収納した副室を設け、共に竪穴式石室で、古墳時代前期(4世紀)の古墳と推定され、箸墓古墳茶臼山古墳と同じ大型前方後円墳と一系列を成し、墳丘を巻いて並ぶ円筒埴輪や縦穴式石室に特長があり、初期大和政権の大王墓と見られています。
 桜井市阿倍の「コロコロ山古墳」

 「メスリ山古墳」の北西角、住宅地に面して、高い金網に囲まれた中に「コロコロ山古墳」があります。1987年桜井南部特定土地区画整理組合が近くから移築し保存しているもので、一辺30m、高さ3mの方墳で、埴輪や葺石はありませんが、中央の横穴式の石室は、全長11m、玄室長5.5m、幅2.5m、羨道長5.5m、幅1.5mもあって、かなり大型の横穴式石室です。東隅に小型小石室もありましたが、天井石は取り去られていたため、今はコンクリートの屋根を付けて保存されています。昭和59年に古墳であることが判り、翌年の発掘調査で、6世紀後半代の豪族の墳墓であることが判りましたが、入れません。
 県文化、談山神社の「一ノ鳥居」

 大きな道を東へ行って「寺川」を渡り、日清製粉の角を右(南)へ曲がると「多武峯街道」です。街道に面して東側に「談山神社の大鳥居」が建っています。ここは、南へ約5キロの御破裂山(標高607m)の山腹に南面して鎮座する「談山神社」の北の入口で、この大鳥居は、談山神社の「一ノ鳥居」です。また、大鳥居は、御破裂山から切り出した花崗岩で造られ、高さ約8.5m、長さ約11.5mですが、西側の端が隣地の火災で欠けています。なお、「多武峯街道」はJRまたは近鉄の桜井駅南口から、南へ来て、直ぐに東側の商店外のアーケードの中を通り、途中から右へ曲がり、真っ直ぐ南へ進みここまで1.8キロです。




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