磐余(いわれ)の道と多武峯街道  その3続き

 式内「稚櫻(わかざくら)神社」

 「安倍寺史蹟公園」の南側の道を西へ行って、突き当たった所で南へ行くと丘の上に「稚櫻神社」が鎮座しています。「日本書紀」神功皇后摂政紀によると、第14代仲哀天皇が亡くなった後、気長足姫命(おきながたらしひめノみこと、神功皇后)が息子の誉田別皇子(後の第15代応神天皇)を皇太子にして、磐余に都を造ったのが「稚櫻宮」で、また、第17代履中天皇が401年11月6日、船を磐余市磯池(いわれノいちノいけ、神社の東下に昔あった池)に浮かべて宴遊をした時、膳臣余磯(かしわてノおみあれし)が酒を奉ったら、盃に桜の花びらが浮かび、天皇は不思議に思われ、「季節外れに桜とは珍しい」と云われて、(次項へ続く)
 「稚櫻神社」の拝殿

物部長真胆連(もののべノながまいノむらじ)に桜の在処を探させると、掖上室山(いけノうえノむろやま)で探し当てたので、天皇はそこを「磐余稚櫻宮」とされ、長真胆連を稚櫻部造とし、また、膳臣余磯を稚櫻部臣(わかざくらノおみ)と名付ました。なお、「稚櫻神社」のご祭神は、出雲色男命(いずもしこおノみこと)で、「新撰姓氏禄」によると、出雲色男命は物部氏の先祖、ニギハヤヒ命の三世の子孫で、長真胆連(稚櫻部造)の4代前の先祖です。「旧事本紀」によれば、出雲色男命は第4代懿徳天皇の時に、大夫(まえつぎみ)になり、次に大臣(おおまえつぎみ)になりましたが、これが大臣の号(な)の初めです。
 国特別史跡「山田寺跡」

 「稚櫻神社」から県道15桜井明日香吉野線(阿倍山田道)を2キロ南下すると、バス停「山田寺前」の左(南東)に東西118m、南北185mの「山田寺跡」があります。大化改新の功臣・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(入鹿の従兄)が、641年(舒明3年)に着工し、2年後「金堂」が完成したが、石川麻呂が政争で息子・興志(こごし)と共に自殺した為、一時中断して、676年(天武5年)塔が完成し、2年後丈六仏を鋳造して、685年(天武14年)開眼供養が行われたが、1187年(文治3年)仏頭は興福寺に強奪され、現在は国宝館で展示し、また、鉄砲水で倒壊した東回廊は飛鳥歴史資料館で展示しています。
 「東大谷日女命神社」の重文「石灯籠」

 「山田寺跡」の直ぐ西側、こん盛りとした森の中に「東大谷日女(やまとおおたにひめ)命神社」が鎮座しています。ここらは、桜井市山田東大谷で、旧高市(たかいち)郡と十市(といち)郡の境界付近に位置し、元は「八幡社」と云い、祭神は古い時代に日本へ帰化した漢民族の子孫、東漢氏(やまとノあやうじ)が祀った東大谷日女命、社記では稚姫命(わかひめノみこと)で、東面する社殿は「本殿」の前に「拝殿」があり、「本殿」に向って右に境内社「厳島神社」、左に「八坂神社」が鎮座、また、境内に八基の石灯籠と一対の狛犬、磐座などもあり、その中で徳に知られているのは拝殿北側の覆屋の中で南面する重文の「石灯籠」で、永和元年(1375年)の銘があります。
 飛鳥資料館(TEL 0744-54-3561)

 「山田寺跡」から、県道15号桜井明日香吉野線のバス停「山田寺前」へ出て、西南へ500m行くと、桜井市から明日香村へ入り、バス停「資料館前」に、奈良文化財研究所「飛鳥資料館」があります。平常入館料260円で、入館は9:00〜16:00、月曜日(月曜が祝日の場合は、火曜日)が休館日で、入口を入ると芝生の庭に「亀石」や、「須弥山石」など、明日香村内に存在する石造物の実物大レプリカが置かれ、また、館内へ入ると、実物大キトラ古墳壁画復元模型や「山田寺跡」から完全な形で出土した倒壊「東回廊」が科学的保存処理を施し展示され、1千年の間地中に眠っていたとは、とても思われない代物です。




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