南山の辺の道  その4

 柿本人麿屋敷跡(JA奈良巻向支店)

 「垂仁天皇纏向珠城宮跡」から更に西へ行き、国道169号線バス停「相撲神社口」に出たら南へ向い、次のバス停「巻野内」で右に折れて西へ入ると、旧道「上ツ道」に至り、左に折れると直ぐ「JAならけん巻向支店」で、前庭の右に「朝臣柿本人麿公屋敷跡」の石碑が建っています。万葉歌人中の第一人者、後世において歌聖とあがめられた柿本人麿(かきのもとのひとまろ)は、女帝持統天皇と孫の文武天皇に仕えた宮廷歌人で、710年頃50歳ぐらいで、任地石見国(島根県)で亡くなったが、彼は葛城市新庄や、榛原町と共に、ここにも移住み、また、柿本氏の本拠地として、歌塚のある天理市和爾町が知られています。
 国史跡、纏向「石塚古墳」

 「JAならけん巻向(まきむく)支店」から西へ行き、JR桜井線「巻向駅」の踏切を渡って更に西へ向い、県道50号線を越してから右へ折れ北へ向うと、弥生時代の庄内土器を多数出土した纏向遺跡(桜井市立纏向小学校)で、小学校の周りに「纏向古墳群」があります。東側にあるのが卑弥呼の時代、200年頃造られた「石塚(いしづか)古墳」で、全長96m、後円部長径64m、短径61mの不整円形を成し、前方部幅32m、長さ32m、括れ部15mに東向きの前方部が付く纏向型の前方後円墳で、周濠は幅30mを墳丘に沿って巡らし、埋没している周濠から弧文円盤や鶏形木製品に加え、多数の農具が出土しました。
 纏向勝山(かつやま)古墳

 なお、写真の右側にちらりと見える「纏向小学校」の北側にあるのが「纏向勝山古墳」です。東向きで、全長約110m、後円部高さ約7mの古墳時代前期の前方後円墳が、周囲に築造時の濠の痕跡を残すように逆台形の「勝山池」の中にあり、小型の銅鐸や小さな舟形の木製品等が出土しているが、詳しい調査が行われていないので、築造時期や、主体部の内容等の詳細は不明でも、墳丘の築造企画が「纏向石塚」「纏向矢塚」「東田大塚」「ホケノ山」等の古墳と同じ企画を持つ纏向型前方後円墳の1つと考えられ、邪馬台国の女王卑弥呼の大市墓(おおちノはか、箸墓古墳)」に先行する古い古墳になる可能性が指摘されています。
 纏向矢塚(やづか)古墳

 また、「纏向小学校」の周を左廻りに巡って、西側にあるのが「纏向矢塚古墳」です。西面する全長が約96m、高さ約5mの古墳時代前期の前方後円墳で、この古墳もやはり墳丘の築造企画が、「纏向石塚」や「纏向勝山」「東田大塚」「ホケノ山」等の古墳と同じ企画を持つ纏向型前方後円墳の1つと考えられていますが、昭和47年に周濠の一部が調査されて、幅17〜23m、深さ60cmの浅い濠を持っていた事が確認されたけど、現在濠らしきものは在りません。また、調査時に出土した土器より、「纏向矢塚古墳」は、「倭迹々日百襲姫命大市墓(箸墓古墳)」より先行して、古い古墳になる可能性が高くなっています。
 東田大塚(ひがしだおおつか)古墳

 「矢塚古墳」から南に直線で約300mの所に見えるのが、「東田大塚古墳」です。迂回して麓まで行くと、墳丘上を竹薮で覆われ、全長約96m、後円部の高さ約7mの前方後円墳で、墳丘の築造企画が「纏向石塚」「纏向勝山」「纏向矢塚」「ホケノ山古墳」などの古墳と同じ企画を持つ纏向型前方後円墳の1つと考えられ、古墳時代前期の古墳ではないかと推測されていますが、詳しい調査が行われていないため、はっきりした築造の時期や、主体部の内容、周濠など、いずれも詳細は不明です。しかし、地元では、後円部の墳丘から石で造られた椅子が出たとの伝承があり、纏向古墳群の中では墳丘形状が最も良く保たれた古墳です。
 桜井市江包の「素戔鳴(すさのお)神社」

 「東田大塚古墳」から西へ約1キロ行くと、桜井市江包(えつつみ)集落南西の隅で、「大和川」の「綱掛(つなかけ)橋」の手前に「素戔鳴神社」が鎮座しています。祭神は素戔鳴命で、毎年2月11日県無民の「お綱祭」が行われ、綱を社前の榎に掛けるので「綱掛神社」とも称し、上田秋成の「岩橋の記」に載っている「お綱はんの結婚式」は、上流から流れてきた素戔鳴命と稲田姫命を江包と対岸の大西で助け、正月に二神が結婚した事に由来し、江包では新藁を持寄り、近くの「春日神社」で雄綱を、大西の「綱越神社」では雌綱を作り、重さ600キロの綱を当社に持寄って結合する奇祭で、大綱は八十八夜まで掛け置きです。
 箸墓(はしはか)古墳

 少々寄道をしたので、「綱掛神社」から大和川沿いに少し上流へ向い、「みずほ橋」から東へ向って国道169号線を渡ると、「大池」越しに「箸墓古墳(倭迹々日百襲姫命大市墓)」が見えます。倭迹々日百襲(やまとととひももそ)姫は、邪馬台国の女王卑弥呼と云われ、日本書紀によると、三輪山の大物主神の妻で、夫の正体が白蛇と知って驚き、陰(ほと)を箸で突いて亡くなり、大市(おおちノ)墓は、大坂山(二上山)の石を手で運び、昼は人が造り、夜は神が造って、全長278mの前方後円墳で、後円部高さ29.4m、前方部高さ16m、前方部の幅125mがバチ型に開き、前期古墳の中でも最も古い形の古墳です。
 環緒塚(おだまきづか)

 「箸墓古墳」を見ながら「大池」沿いに東へ行き、南北に延びる旧道「上ツ道」へ至ったら右に折れて、「箸墓古墳」の裏を南へ向うと、四つ角を過ぎ、民家が途切れた街道の左側に「環緒塚」が建っています。江戸時代に建てられた石碑には、太古において、ここ笠縫邑(かさぬいむら)に天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀った事を示す碑文が、「天照大神鎮座之址在東七町許笠縫邑」と彫られて、ここから東へ七町(763m)行った所に鳥居だけが建ち、本殿も拝殿も無い「檜原神社」が鎮座し、また、石碑の下に「古事記」の三輪山神婚説話に記された糸、すなわち、三輪(みわ)残った環緒(おだまき)を納めています。
 旧村社「国津(くにつ)神社」

 また、「環緒塚」からちょっと北へ戻って、直ぐの四つ角を右に折れ、JR桜井線の踏切を渡って東へ向うと、箸中(はしなか)集落の中央で、「巻向(まきむく)川」の北岸に「国津神社」が鎮座しています。祭神は国津神ですが、箸中では当社を「ウブスナ」と云い、宮座に右座と左座があり、三輪山麓の檜原神社を氏神と称し、毎年正月2日と15日「檜原神社」と「国津神社」で荘厳講が行われます。なお、境内に昔旧神宮寺の「大日堂(だいにちどう)」が鎮座していましたが、今はありません。また、近くには「国津神社」を挟んで、東西に古墳があるけど、当社からも弥生時代の石鏃(いしのやじり)が出土しています。

 国史跡、「ホケノ山古墳」

 「国津神社」から巻向川沿いに東へ行き、直ぐ左へ入って西へ向うと、「ホケノ山古墳」が在ります。古墳時代前期の大規模集落である纒向遺跡の南東端に位置し、東方より延びる緩やかな丘陵上に邪馬台国の女王卑弥呼が没した、250年頃築造の小規模な前方後円墳で、全長が85m前後、周濠の幅は10.5m〜17.5mと不規則で西側が広くて、前方部の裾が撥(ばち)形に広がる日本で最も古い型の部類に属し、画文帯神獣鏡内行花文鏡と刀剣の他に、平成7年以降の発掘調査で周濠や葺石、沢山の土器片が出土し、石囲いの穴の中に木組の木槨(もっかく)を置く特殊な型で、竪穴式石室以前の原始的な埋葬施設でした。
 巻野内石塚古墳

 「ホケノ山古墳」から更に北へ約300m行って、左(西)を見ると、JR桜井線の手前にちょっと小高い丘があり、ここも古墳で「巻野内石塚古墳」です。北の桜井市巻野内(まきのうち)地区から、南の箸中(はしなか)、茅原(ちはら)の地区にかけては有名な珠城山古墳群箸墓古墳、茅原大墓古墳があるが、その他に20数基の中・小規模の古墳が散在し、数基の方墳があるものの、多くは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもあるようで、「巻野内石塚古墳」もこれらの古墳群中にあり、まだ本格的な調査が行われていないため詳細不明ですが、後円部径約35mの北面する前方後円墳のようです。
 慶運寺(TEL 0744-42-5061)

 また、「巻野内石塚古墳」から「ホケノ山古墳」、更に南の「巻向川」へ戻って、川沿いに東へ行くと、直ぐに浄土宗三輪山「慶運寺(けいうんじ)」です。1634年(寛永11年)創建で、本堂は昭和12年に建立され、本尊は今は廃寺(はいじ)で、桧原神社の近くにあった「井寺(いでら)」から移された高さ1mほどの長谷寺型「十一面観音立像」、更に高さ約70cmの半鐘(はんしょう)があり、呪文(じゅもん)の陀羅尼(だらに)が梵字(ぼんじ)で彫られ、「慶運寺」では、毎年お盆に、縦横2mの大きな極彩色の「地獄絵」が大広間の本堂に掛けられ、「閻魔大王の裁き」などを使って、絵解き説法が行われます。
 慶運寺の「石棺仏」

 なお、「慶運寺」の境内で、本堂に向って左側に、「石棺仏」が立っています。建治形と呼ばれる「弥勒菩薩」を刻んだ刳抜式の石棺の身で、「慶運寺」周辺には、かって六基前後の古墳時代後期の古墳が存在していたが、いずれの古墳に属していたか不明で、「慶運寺」の裏にも後世の開発によって墳丘が改変され、墳形は判らないけど、南面する円墳と考えられ、乱石積で構築した両袖式の横穴式石室があり、長さ3m、幅1.8m、高さ2mで、羨道(せんどう)の一部は削り取られてありません。更に裏に廻ると、三輪山を借景にした枯山水の庭園があり、苔むした庭石と共に樹齢約100年を越えるサツキの古木がみごとです。
 国史跡「茅原大墓古墳」

 「慶運寺」から「巻向川」沿いに東へ向かい、次の十字路を右へ折れて、小川を渡り南へ300mほど行くと、左側の小高い丘が「茅原(ちはら)大墓古墳」です。三輪山の西裾に築かれた帆立貝型の前方後円墳で、墳丘部全長約66m、後円部径約56m、前方部幅約29m、箸中古墳群の中では、「箸墓古墳 」に次ぐ規模をもち、墳丘に葺石と共に円筒埴輪が樹立していたらしく、かなりの破片が散乱し、また、古墳の周囲には周濠の痕跡をとどめ、西側に今でも濠が存在し、まだ、発掘調査が実施されていないので、埋葬施設については不明ですが、帆立貝型の古墳は全国でも数が少なく、築造年代は五世紀と考えられています。




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