「香芝市」から 「王寺町」辺り  その13

 放光寺(0745-72-3710)

放光寺(0745-72-3710)  「片岡神社」の横から裏側へ廻ると、黄檗宗片岡山「放光寺(ほうこうじ)」があります。古くは「片岡王寺」と称し、聖徳太子、または、百済王から帰化した大原博士の建立とも云われる古刹で、1046年(永承元年)落雷で堂宇の多くが焼失し、1384年(弘和4年)金堂の再建落慶供養が行われたけれど、1572年(元亀3年)松永久秀の乱により再度炎上し、現在の王寺小学校の敷地はその遺跡と云いわれ、山門に掲げられている額「片岡山」は、当寺二世瑞鳳(ずいほう)の書、本堂の額「放光寺」は、隠元の書で、本尊の「十一面観音坐像」は、中興開山の鉄牛が彫り、審盛の著「放光寺古今縁起」も残っています。
 達磨寺(TEL 0745-73-2165)

 「放光神社」から東へ出て、国道168号線を渡ると、臨済宗南禅寺派片岡山「達磨寺(だるまでら)」です。推古天皇の発願によって建立され、その後荒廃を重ね、更に「興福寺」の僧兵による放火等があり、1430年代(永享年間)に中興されるまで数々の災難に見舞われ、また、室町末期の1570年頃にも兵火によって焼失したが、今の堂宇は、数度に渡って再建されたもので、寺内に多くの寺宝、文化財を保存し、本尊は我が国最古、日本一大きい「木造達磨大師坐像」で、他は「木像聖徳太子坐像」「絹本着色涅槃(けんぽんちゃくしょくねはん)図」「石造達磨寺中興記憧(ちゅうこうきとう)」等いずれも重文です。
 第17代片岡八郎、第27代片岡春利の墓

 「達磨寺」は、日本書紀に聖徳太子と片岡山飢人の物語が説話として載っていますが、本堂の西南に片岡八郎利一(としかず)、片岡春利(はるとし、片岡城主)、松永久秀らの墓があり、片岡八郎利一は、王寺の人で、南北朝の頃、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王の主な家来の1人です。大塔宮は京都で幕府軍と戦うが、戦況が不利になり、紀州熊野へ逃れるため道を十津川にとった所、途中、十津川村玉置山花折塚付近で敵が待ち構えている事を知った八郎が、宮に急を知らせようとしたら、追っ手が迫り、伝言を矢田彦七に頼み、彼は敵中に斬り込み戦死したが、そのお陰で大塔宮は危機を脱しました。




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