山の辺の道  その12

 国史跡「西山古墳」

 「山の辺の道」から少し外れたけど、外れついでに「合掌造り」のある所から更に西へ向うと、天理中学校の辺りに「西山古墳」が在ります。杣之内(そまのうち)古墳群中最大の前方後方墳、墳丘長180m、前方後方墳としては我が国で最大規模の古墳で、円筒埴輪が配置され、墳丘は西向きで二段に築成、下段が前方後方形、中段より上が前方後円形を成し、特異な形式の古墳で、4世紀後半頃の築造です。なお、この辺りは天理市杣之内町で、「西山古墳」の濠の北側にも直径60mの大型円墳「塚穴山古墳」が在り、墳丘や石室の上部の石材は、ほとんど失われていますが、飛鳥の「石舞台古墳」並で、7世紀初頭の築造です。
 内山永久寺跡「萱の御所」

 ちょっと横道に逸れたけど、都祁(つげ)山口神社脇を通って再び「山の辺の道」に戻って、南へ進むと直ぐ「内山永久寺跡」です。土手を上がった本堂池の角に、松尾芭蕉が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住み、号を宗房(むねふさ)と云っていた頃の23,4歳の春、内山永久寺に参詣して詠んだ俳句で

 うち山や とざましらずの花ざかり  宗房

の句碑が建っています。本堂池に沿って左へ進むと、池と反対の左側に写真の様な「萱(かや)ノ御所跡」と書かれた石碑が、南向きにぽつんと建っています。
 内山永久寺跡の「本堂池」

 内山永久寺は、1115年頃(永久年間)第74代鳥羽天皇の勅願によって創建され、50以上の堂塔が並ぶ大寺院で、山号を内山・院号を金剛乗院と云い、真言宗の大寺院でしたが、明治初年の廃仏毀釈で取り払われ、現在は本堂の在った所に池が残るだけです。その「本堂池」に突き出た所に写真の様な碑が建っていますが、中世には興福寺の末寺で、南北朝の頃には第96代後醍醐天皇が京都花山から吉野へ落ち延びる際に一時入寺して「萱の御所」とされ、江戸時代には971石の朱印地を与えられ、大和では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていました。なお、東大寺の国宝、持国天と多聞天像は昔ここの所有でした。




奈良観光表紙に戻る  北山の辺の道散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む