山の辺の道  その13

天理観光農園、峠の茶屋「ひがし」

 写真は「石上神宮」のトイレから南へ2キロばかり来た所で、次のトイレがある峠の茶屋「東」さんで、「内山永久寺跡」から山道へ分け入り、途中に山鳥や雉を温室の様な中で沢山飼っている鳥舎の横を通り、山道を下りた所に在ります。飲物も売っていますが、何と言ってもここの名物は「粟餅」で、他ではめったに食べられないの物なので1つ食するのもおつです。特に恋しい人との再会を待ち望んでる方に奨めます。由来は売店の奧の壁にも書かれていますが、万葉集の巻3−404・405・406にも詠われている様に粟は万葉の昔から恋人に会えると云ういわれが有り、餅は心もちを表し、食べると必ず恋人に逢えるとか。
杣之内古墳群の「東乗鞍古墳」

 「山の辺の道」だけでなく大和路を歩くと、あちらこちらに何の変哲もない様な小さな丘が大抵古墳で、峠の茶屋「東」から南へ歩き、直ぐの角を右へ曲がり次の三叉路を左へ曲がるのが「山の辺の道」ですが、そのまま真っ直ぐ進むと、左手に杣之内古墳群の1つ「東乗鞍(ひがしのりくら)古墳」です。全長72mの前方後円墳で、横穴式石室をもった後期の古墳です。更に西へ進むと、大きな道路に面して全長120mの「西乗鞍古墳」が在り、やはり後期の前方後円墳で、西側のちょっとした広場に昭和7年に昭和天皇行幸の「乗鞍山御野立之處」と彫られた石柱の建った所から綺麗に整備された古墳の頂上へ登ることが出来ます。
杣之内古墳群の「西乗鞍古墳」

 奈良盆地の東にある「西乗鞍古墳」は、埋葬施設がある後円部を北に配して、南向きの前方部との主軸を南北に置き、昭和56年の発掘調査で、前方部の南側から東側にかけて墳丘を取り巻く壕の跡が見つかり、そこから多数の埴輪が出土しました。埴輪の特長や墳丘の形から古墳時代後期、5世紀末から6世紀にかけ築造された古墳と推定され、埋蔵施設は大型の横穴式石室を築くものと考えられているけど、まだ本格的な調査が行われていません。なお、ここは現在遊園地ですが、かっては昭和天皇が陸軍大演習を統監し、野点(のだて)をされた所だけあって、西に生駒、葛城、金剛の連山が遠望され、南に大和三山も見渡せます。
 山辺御県坐神社

 「西乗鞍古墳」から更に西へ約2.8キロ行って、近鉄天理線「前裁駅」から南へ約1.6キロ来た古道「中ツ道」と交わる天理市西井戸堂町大門に「山辺御県坐(やまべノみあがたにいます)神社」が鎮座しています。祭神は建麻利根(たけまりね)命、ここは、710年(和銅3年)3月10日藤原京から平城京へ遷都される時、女帝の元明天皇が文武百官を従えて、「中ツ道」を北進し、御輿を停め一泊され、夫・草壁皇子と息子・文武帝を偲び、万葉集巻1−78を詠い

 飛ぶ鳥の 明日香の里を置きて去なば
 君が辺りは見えずかもあらむ 1−78
 妙観(みょうかん)寺「観音堂」

 万葉歌碑は境内の西側、神社の正面に建っていますが、境内の北側に「観音堂」があり、元は神宮寺で、井戸の上に建っているので井戸堂の地名の起源です。本尊は藤原時代の重文「十一面観音立像」で、なお、ここも「山辺の御井」と云われ、「中ツ道」に面して今も井戸があり、また、1007年(寛弘4年)8月2日丑の刻、藤原道長が京都を発ち、吉野金峯山へ経筒を納めに行く途中、男山八幡、奈良大安寺で参籠祈願し、3日目の8月4日「観音堂」に参籠の上、終日誦経の後、ここで一泊され、翌日の朝多くの供物をして、八木「軽寺」へ向って出発しましたが、位人身を極め栄華を誇った道長の3つの願を叶える旅でした。




奈良観光表紙に戻る  山の辺の道散策図を開く  前のページに戻る   次のページに進む