北山の辺の道  その6

 円照寺(TEL 0742-61-7600)

 参道を東へ進むと、普門山「円照寺」の黒木の門に突き当たるが、「円照寺」は格式の高いお寺で、斑鳩の「中宮寺」、奈良は佐保路の「法華寺」と共に大和三門跡の1つで、代々皇室関係の方が門跡になられ、別名「山村御殿」とも称し、三島由紀夫の絶筆「豊壌の海」に載っている「月修寺」のモデルで、平成7年4月12日に80歳で亡くなられた第10代山本静山(じょうざん)門跡は、昭和天皇の妹君・糸子内親王でした。なお、門内は非公開で中へ入ることは出来ませんが、清められた参道や静かな門前の周辺に尼寺らしい落ち着いた雰囲気が漂い、また、「円照寺」は華道「山村御流(ごりゅう)」の家元でも有ります。
 臨済宗妙心寺派普門院「円照寺」

 円照寺は第108代後水尾(ごみずお)天皇第1皇女・梅の宮(文智女王)の創建で、初めは1641年(寛永18年)京都修学院に草庵を結び、天皇の修学院離宮造営に際して移転を余儀なくされ、1656年(明暦2年)継母東福門院(徳川秀忠の娘・和子)の力添えで幕府から二百石の寄贈を受け、大和国添上郡八嶋に移って、御所と称し、1669年(寛文9年)現在地に再移転して俗に「山村御殿」と呼ばれます。拝観は認められていないが、境内に寝殿造で唐破風の玄関を持つ書院、宸殿、奧御殿、葉帰庵などが建ち並び、八嶋御所から移築された萱葺(かやぶき)の本堂円通殿に本尊「如意輪観音像」が安置されています。
 帯解寺(TEL 0742-61-3861)

 「円照寺」の参道を西へ行くと、JR桜井線の帯解駅の手前に昔の上街道(上ツ道)が線路と平行し、北へ100mの所、道に面して華厳宗子安山「帯解寺」が在ります。勤繰(ごんぞう)大徳の開基厳渕千坊の一院で霊松山と称し、第55代文徳天皇の妃染殿皇后(藤原良房の娘)がお子様に恵まれず悩んでいた時、祖神春日明神のお告げにより、勅使を立て帯解子安地蔵菩薩に祈願すると、間もなく懐妊し、月が満ちて、惟仁親王(後の清和天皇)が産まれ、喜んだ天皇が、858年(天安2年)伽藍を建立し寺号を「帯解寺」と定めました。本尊は重文「地蔵菩薩半跏像」、鎌倉時代の作で、桧木の寄棟造、坐高1.366mです。
 小野小町之宮址

 帯解寺の境内、南側の駐車場の北西角に「小野小町之宮址」があります。1675年(延宝3年)に書かれた「南都名所集」によれば、ここに「小町の宮」と云う建物が建っていたそうです。小野小町は平安時代初期の女流歌人で、「六歌仙」、「 三十六歌仙」の一人、出生については諸説があり不明ながら、この地の北、「青井神社」で疱瘡(ほうそう、天然痘)の平癒(へいゆ)を祈ったら治ったと伝えられ、また、南の石上寺(いそノかみでら、今は廃寺)へ僧正遍昭(へんしょう、六歌仙の一人)を訪ねた歌がありますが、帯解寺の門前は長谷寺や伊勢神宮へ通じる古道の「上街道」で、小町もここへ留まり、参詣しました。
 広大寺池(こうだいじいけ)

 「帯解駅」北側の今市跨橋を渡って、西へ向かい、「春日神社」の前を通り次の交差点を左に折れると、「広大寺池」があります。堤長950m、堤高7m、受益面積95haで、「日本書紀」記載の「和珥(わに)池」と云われ、613年(推古21年)聖徳太子稗田の里で、昼食に稗の飯を出され、訳を聴くと、村は水利が悪く稲が実らず、稗が常食と知り、太子が「それは、かわいそうだ」と、早速黒駒に乗って稗田の東方、奈良市池田町(駒繋ぎの松あり)まで行き、秦河勝(はたノかわかつ)に命じて池を掘り、菩提山(ぼだいせん)川の水を引いて、大和郡山市稗田町、上・下三橋(みつはし)町へ灌漑用水を送りました。
 龍象寺(TEL 0742-61-6720)

 「帯解寺」から上ツ道を南へ300mほど行くと、正木坂に面して、臨済宗宝奇山「龍象寺(りゅうしょうじ)」が在ります。聖武天皇勅願で、730年(天平2年)行基が創建し、本尊は、帯解寺と同じ「木造地蔵菩薩半跏像(子安地蔵)」ですが、この本尊は、行基菩薩一刀三礼の霊像と云われ、江戸時代以来安産信仰を集め、当山の真東に在る「円照寺」の歴代門跡も深く信仰され、また伝承によると、「龍象寺」は、「広大寺池」の近くに在ったと云われる聖徳太子建立の広大寺(光台寺)の「奧の院」とも云い、本堂の天井に狩野春甫が描いた龍は、広大寺池の水を飲んでいたが、目に釘を打ち、鱗3枚塗りつぶされています。

 「五聖地めぐり」の「竜王池」

 「円照寺」の「黒木の門」の直ぐ前の所で、石標の「西国三十三所霊場」に従って南へ上がって行 くと、途中に「西国三十三所霊場」が在って、西国三十三所各寺の御詠歌を刻んだ33本の石柱や、ずら りと36体のお地蔵さんが並び、小さなお堂が建っています。そこを抜けて、更に南へ進み突き当たって 左(東)へ行くと、右に写真の様な「竜王池」が在り、池の中の島に小さな朱色の社が建っています。池 の北側を山の方へと向かい、東へ歩くと「正暦寺」への道ですが、ハイキングコース「五聖地めぐり」の 道でも有って、左手には後水天皇第1皇女文智女王を始め、霊元天皇皇女さん達の歴代円照寺の門跡の皇 女墓が在ります。
 黄金(こがね)塚陵墓参考地

 また、少し西へ戻り、山の辺の道(東海自然歩道)をバス停「山村町」から南へ向うと、スロープの道を上がって集落に入り、車道は奈良近畿戎協同組合の角を左に曲るけど、そのまま直進して突き当たり、左折して竹薮の中を進むと、左側に「黄金塚古墳」があります。735年(天平7年)に亡くなった舎人親王の墓と云われ、墳丘の裾に葺石が敷き、一辺約26m、二段築成の方墳で、南面を除く三方には空濠が巡り、全長約12.5m、横穴式石室を有し、石室はレンガ状の石を丁寧に積み上げ、表面に漆喰を塗り、遺体を安置した玄室は3m四方で高さ1.3m、入口の羨道(せんどう)に三ヶ所張り出しがある特異な造です。




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