金魚と百万石の城下町「大和郡山」  その2

 柳澤文庫(TEL 0743-58-2171)

 柳澤氏は、信鴻(のぶとき)、保光(やすみつ)、保泰、保興、保申と明治維新まで147年間で6代続きました。なお、城内の毘沙門曲輪に財団法人「郡山城跡史跡・柳澤文庫保存会(通称、柳澤文庫)」があります。明治35年郷土の文化振興に役立てるため、柳澤家が所蔵する書籍を柳澤保恵氏が公開し、植槻町に開設された「柳澤文庫」が昭和初年に閉鎖した後、昭和35年10月10日地方史誌専門図書館として、初代理事長・柳澤保承氏が当地に再興し、柳澤家歴代の書や和歌集などを展示するほか、徳川歴代将軍の書画など数万点を保管され、開館は、9:00〜16:30、入館料200円で、月曜と祝日がお休みです。
 本丸跡に鎮座する「柳澤神社」

 「柳澤文庫」のある「毘沙門曲輪」の南西隅から、細い通路を通って「天主廓」の「台所橋櫓跡」に渡ると、天主台の手前に「柳澤神社」が鎮座しています。祭神は、郡山での柳澤氏の初代吉里の父で、徳川五代将軍犬公方綱吉の御用人だった柳澤美濃守吉保です。彼は、綱吉が館林侯の頃から仕え、綱吉が将軍になると、小納戸、御用人になって活躍し、大老格の武蔵国川越城主から甲府15万石城主に栄転し、1714年(宝永11年)57歳で亡くなり、明治13年10月29日旧藩士らが創建した本殿は一間社流造、拝殿は割拝殿、扁額「柳澤神社」の4文字は有栖川宮熾仁親王(ありすがわノみやたるひとしんのう)の筆です。
 天主台下の「逆(さか)さ地蔵」

 1577年(天正5年)10月10日松永弾正少弼久秀が信貴山城に滅んで大和国が平定されると、信長の命令で、1580年(天正8年)一国一城とされ、筒井城を捨てた順慶が郡山の丘陵地に城を築きましたが、よっぽど信長に尻を叩かれて工事を急いだのか、天守台の石垣は野面積(のづらづみ)で、奈良の水谷川の大石を切り出しても足りず、寺院の礎石、庭石、五輪塔、石仏等も持ち込まれ、北東角の石は、平城京羅城門の礎石で、北面中央の下には、頭を下にされた「逆さ地蔵」が埋め込まれ、なお、縄張は明智光秀も手伝い、また、1585年(天正13年)豊臣秀長の城造では紀州根来寺の大門を運び、城門にしました。
 郡山城址「野面積の天主台」と「大数珠」

 1858年(安政5年)12月1日「二の丸」から出火した火は、城内の住居向きの建物すべてを焼き、3年後の文久元年に再建されましたけど、明治維新で櫓、門、屋形などは、明治6年3月20日入札により売却され、落札者によって運びさられました。なお、桜の名所として知られる「郡山城址」は、毎年4月に桜の下で「お城まつり」が開催され、1086個の数珠玉、全長144m、総重量2250トンが天守台を取り巻きます。この大数珠は、昭和36年当時の観光協会長・広瀬元治郎氏の発願によって、築城以来この城にまつわる諸霊なびに石垣に埋められた仏石を弔うために、郡山市民有志の浄財を以て調製されました。




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