室生と大和富士周辺  その5

室生寺の「鎧坂」と国宝「金堂」

 鉄板を威した鎧の様に見える「鎧坂」は、大和三階段(談山神社仏隆寺、室生寺の石段)の1つで、上がり切った所に国宝の「金堂」が見え、「鎧坂」の両側に植わっているのが石楠花(しゃくなげ)で、4月下旬〜5月上旬の花時に、長谷寺と室生寺を結ぶ直通バスが有ります。なお、平安初期建立の「金堂」は、前方が崖造になっていて、屋根が入母屋造で、五間に四間の建物でしたが、江戸時代に前面一間の礼堂が加えられ、現在は、桁行五間・梁間五間、一重・寄棟造・正面一間通りすがる破風付葺おろし・柿葺で、中世までは「根本堂」、「本堂」と呼ばれ、当寺の中心でしたが、その後密教化で「金堂」と呼ばれています。
 「室生寺」の国宝「金堂」の側面

 なお、「金堂」の内陣に安置されている五仏像は、須弥壇中央正面に一木造で衣紋を美しく流した国宝の「釈迦如来立像」が脇侍で国宝の「十一面観音立像」を従え、国宝の「板絵光背」を背にして立ち、また、前面に運慶作で国重文の「十二神将立像」が立っています。作年代は、中尊と脇侍の「十一面観音立像」が9世紀で、他の三尊は10世紀の作です。所で、中尊は現在、伝承で「釈迦如来立像」になっていますが、1314年(正和3年)の「宀一山図」では、「根本堂薬師仏」と記され、「和州寺社記」や江戸末期に寺蔵の普請帳は、今の「金堂」を「薬師堂」と称しているから、本来は「薬師如来立像」かも知れません。
 「金堂」から見た重文の「弥勒堂」

 「金堂」の斜め左に建つのが国重文「弥勒堂」で、入母屋造、柿葺(こけらぶき)、鎌倉時代前期の建立で、その後何度も改修され、江戸時代にも大きな修理が加えられています。堂内の須弥壇(しゅみだん)上の厨子(ずし)に平安時代初期の作で、国重文の本尊「木造弥勒菩薩立像」が安置され、外陣北側の厨子には、流れる様に美しく衣紋(えもん)の襞(ひが)を波打たせた国宝の「木造釈迦如来坐像」が安置され、9世紀後半に完成を極められた翻波(ほんぱ)式彫刻の代表作と云われて、平安時代初期の作です。また、「金堂」の左側から石段を登ると、「桂昌院墓石」が正面に建っていて、その左(西)側が「本堂」です。
室生寺の国宝の「本堂」

 「桂昌院墓石」の前を通って西側へ出ると、山内で最大の建物、室生寺の「本堂」です。元は、「灌頂堂(かんじょうどう)」または「真言堂」とも呼ばれ、1308年(延慶元年)鎌倉時代中期の建立で、桁行五間・梁間五間、一重・入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)、庇(ひさし)の反りが強く、大仏様の細工が巧みに取り入れられ、堂内は、前面の二間が外陣、奧の三間が内陣、両陣とも板敷きで、境界の中央三間に板扉が立てられ、昔は密閉した内陣で灌頂が行われました。また、内陣正面の須弥壇上の厨子に日本三如意輪(観心寺、神咒寺)の1つ、平安時代に作られた国重文の「木造如意輪観音坐像」が安置されています。




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