奈良町  その14

 崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)

 「興徳寺」の門を出て少し東へ行って、右(南)へ曲がり、辻に突き当たったら、又右(西)へ曲がり、少し西へ行き、今度は左(南)へ曲がって、そのまま真っ直ぐバス道路を渡った所に「崇道天皇社」が鎮座します。崇道天皇は、奈良朝最後の第49代光仁天皇の第2皇子、早良(さわら)親王のことで、第50代桓武天皇の同母弟。兄の即位に伴って皇太子になったけど、785年(延暦4年)長岡京造宮使の藤原種継暗殺事件に連座して、長岡京市の乙訓寺に幽閉され、淡路へ流される途中、全ての飲食を絶って淀川辺りで餓死しました。そこで、怨霊を鎮め、霊を慰めるため崇道天皇と追尊し、国重文の本殿に祀られています。
 l城寺(TEL 0742-22-4887)

 「崇道天皇社」から南へ行くと、同じ並びに浄土真宗遣迎院派常行山「l城寺(れんじょうじ)」があります。行基の開基、平城京遷都で飛鳥の「紀寺」を移して創建され、荒廃していたのを紀有常卿が再興して「l城寺」と称し、本尊は恵心の造顕による奈良三裸形の1つ「阿弥陀如来立像」で、光明皇后の等身大の姿を写し、五尺四寸五分(165cm)、全国に4、5体しかない裸形の一体で、重文の脇侍を従え県文化、尊像に礼拝し南無阿弥陀仏と称えれば必ず浄土の蓮台へ契りを結ばせようとの誓いで、過っては、秘仏として50年に一度の開扉でしたが、近年は毎年5月中頃開扉され、安産祈願の為の参詣者が多く訪れます。
 今西家書院(TEL 0742-23-2255)

 「崇道天皇社」からまたバス通りへ出て、東へ向いバス停「紀寺町」の交差点を左(北)へ折れて、次のバス停「福智院」の交差点を左(西)へ入ると、直ぐ見学ポイント12「今西家書院」です。もと興福寺の坊官、福智院家の住宅で、室町時代の様式をよく伝える書院造りの建物が国重文で、見学は、10:00〜16:00(受付は15:30まで)、350円、お休みは月曜と、8/9〜8/20、12/20〜1/10。大正13年今西清兵衛氏が買い求め、床付きの9畳と8畳からなり、一重片側入母屋造、軒唐破風付き、片側切妻造、檜皮葺(ひわだぶき)の建物で、東隣が辛口清酒「春鹿」醸造元、今西清兵衛商店です。
 福智院(TEL 0742-22-1358)

 「今西家書院」を出て東へ向い、国道169号を渡ると、次の角に「福智院」が在ります。外観はこの辺りの寺院に見かけない建造物で、重層に見えるが、実は一重、裳階(もこし)付き、国重文です。717年(養老元年)吉備真備らと入唐して、法相宗を学んで帰国した玄ム(げんぼう)が、736年(天平8年)狭川村福地に開いた清水寺(しみずじ)が始まりで、1254年(建長6年)興福寺の実信が再興して福智院と名付け、後に叡尊が再興したのが現在の堂宇で、十輪院と共に地蔵信仰の中心として栄え、室町時代は興福寺に属して大乗院関係の菩提所でした。その後、一時衰退していたが、近年多くの参詣者が有ります。

 福智院のご本尊「地蔵大仏」

 「福智院」の本尊は「地蔵大仏」と云われ、桧材、寄木造、丈六(座高273cm)の大きな「地蔵菩薩座像」で、千仏光背と本尊の地蔵の総数は、釈迦入滅から弥勒菩薩が如来になるまで56億7千万年、地蔵菩薩が現世と来世を往き来するのに因み、567体あり、製作年代は、像内銘から1203年(建仁3年)の造立です。なお、「福智院」は鎌倉時代以降、南都の地蔵信仰の霊場として栄えていましたが、最近は女性客専用のレディース宿坊として人気を集め、毎年7月23日の地蔵盆にはこの辺りの地蔵盆として夜店なども出て、多くの人で賑わいを見せ、また、毎年6月18日「福智院」と「頭塔」で玄ム忌が営まれます。




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