西大寺中興の祖、興正菩薩「叡尊」のこと

 叡尊(えいぞん)、字(あざな)が思円(しえん)房は、1201年(建仁元年)5月大和国添上(そうノかみ)郡箕田(みた)ノ里{現在の大和郡山市白土(しらつち)町}で6人兄弟の次男として生まれ、父は興福寺の学侶(学僧)慶玄、7歳の時に母と死別し、翌年京都にもらわれて家を離れたが、新しい母とも死別して、京都市伏見区の「醍醐寺」に預けられ、1211年(建暦元年)11歳で官僧として「醍醐寺」円明房の叡賢に師事し、密教を学びましたが、後に官僧のあり方に疑問を抱いて離脱し、実家の白土町へ戻り、1217年(建保5年)17歳で兄を亡くし、「醍醐寺」で剃髪して出家の後に、高野山長岳寺などで真言密教を学んだが、次第に戒律重視の必要性を感じて、戒律仏教に近づき、「海住山寺」の貞慶(じょうけい)の弟子・戒如に師事して、律宗を学びました。

 1235年(文暦2年)35歳の時、当時荒廃していた西大寺に入寺して戒律を復興し、南都真言を創始しましたが、叡尊の律宗は、南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、律、華厳)の律宗と真言密教の混合で、鎌倉時代に起った新仏教(法然の浄土宗、栄西の臨済宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗、一遍の時宗など)に対し、反鎌倉新仏教を取り、彼を祖として真言律宗(しんごんりっしゅう)と呼ばれ、本山が「西大寺」で、また、彼は生涯において700余の寺院を創建・修復しました。

 1236年(嘉禎2年)叡尊36歳の時、東大寺戒壇院で、覚盛(かくじょう)44歳、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと共に自ら仏に誓いを立て、自誓授戒(じせいじゅかい)を受け、その後大和を中心に活発な宗教活動を行い、叡尊が西大寺を、覚盛が唐招提寺を、円晴が不空院を復興しました。

 なお、この年鎌倉幕府が大和に守護を置くがすぐに廃され、また、叡尊はその後、1285年(弘安8年)までの50年間、民衆3万8千人に菩薩戒(ぼさつかい)を集団的に授けたが、菩戒薩では、善を修め、悪を止どめて、他の人々の為に尽くす三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を行い、戒律護持を戒師の前で誓いました。

 1239年(延応2年)叡尊39歳は、弟子の忍性(にんしょう)23歳に出会い、彼に大乗仏教の十重戒を授け、また、師の叡尊は忍性の勧めで文殊信仰を取り入れ、西大寺の律院で茶宴を設け、慈善救済事業として施茶を行い、更に弟子の忍性は、奈良坂北山宿にハンセン病患者救済のため、日本初の病院「北山十八間戸」を建て、物乞いに出る患者を毎日背負って、奈良町まで送り迎えしました。

 1242年(仁治3年)4月3日叡尊42歳は「長谷寺」で104人に菩薩戒を授けました。

 1244年(寛元2年)4月14日・15日唐招提寺第一代長老の覚盛(窮情房)が唐招提寺に諸寺の僧(布薩比丘38名、沙弥8名)を集めて集会を催した時、西大寺の叡尊も招かれ、彼は四部布薩(四部の書籍を誦読すること)をし、翌15日梵網布薩(ぼんもうふさつ、梵網経に説く菩薩の自覚に立って守るべき十重四十八戒を書いた戒本を誦読すること)をし、また、覚盛も説戒(せっかい、布薩)をしました。

 なお、同年は忍性の亡母13年回忌に当り、叡尊は大和国城下郡屏風(びょうぶ)里(奈良県磯城郡三宅町屏風)に赴いて、忍性の亡母の追善法要を行い、また、翌年泉州家原寺」において、忍性に別受戒を授けました。

 1248年(宝治2年)忍性が律宗の聖教を整備しようと、入宋を思い立った時、叡尊が止め、かわりに入宋していた同志の覚如(かくにょ)、有厳(うごん)、定舜(じょうじゅん)が律の典籍である律三大部を携えて同年6月博多に帰着したとの知らせがあり、忍性を博多に遣わし、律三大部を鎮西から奈良へ持ち帰らせ、西大寺に納置しました。

 1249年(建長元年)3月19日叡尊は京都市嵯峨「清涼寺(せいりょうじ)」の国宝で、本尊「清涼寺式釈迦如来像」を模刻して、西大寺四王堂(しおうどう)に新たな本尊を安置しましたが、現在その「木造釈迦如来坐像」は重文の本尊として、やはり重文の「脇侍像」と「木造騎獅文殊菩薩」を従え、西大寺の「金堂」に安置されています。

 1252年(建長4年)弟子の忍性36歳が叡尊の西大寺流律宗(真言律宗)を広めるため、関東へ下向し、最初の10年間は北関東の筑波山麓「三村寺」に入り、その後45歳で鎌倉に移り、そこを拠点に関東で活動し、彼の墓は「竹林寺」にもあります。

 1259年(正元元年)8月叡尊は石清水検校(いわしみずけんぎょう)の招請により、南北二京(奈良、京都)の持戒僧と共に八幡大菩薩の宝前において、一切経を転読しました。

 1260年(文応元年)正月修正会の後、俄かに雪が降り出した1月16日叡尊は西大寺の鎮守「八幡宮」の社前で国土安泰を祈願して祈祷を行い、参拝者に湯茶を降る舞いました。これが現在有名な「西大寺の大茶盛」の始まりで、その後、直径30cm、重さ7キロの大茶碗を用いた「大茶盛」は明治時代の末頃、釈迦の誕生日と桜の季節を兼ね、4月第2土・日曜に改められ、秋にも10月第2日曜に行われます。

 1262年(弘長2年)2月叡尊は弟子の性海を伴って、北条時実(ときざね)の招請で奈良から京都の醍醐、逢坂(おうさか)関、近江守山宿、佐女井(さめい)宿(醒井、滋賀県米原町)、不破(ふわ)関(岐阜県関ヶ原町)、美濃、尾張、三河、駿河、相模を通って鎌倉に下向しましたが、その道中、宿場ごとに法話を行い、非人に至るまで儲茶(ちょちゃ)を降る舞い、鎌倉では忍性の住む「新清涼寺釈迦堂」に落着き、北条時頼から帰依されて受戒し、また、関東武土からも帰依を集め、更に民衆に至るまで受戒や救済を施して、翌年帰洛しました。

 1264年(文永元年)叡尊は西大寺で光明真言会(こうみょうしんごんえ)を開始しましたが、光明真言会とは滅罪と後生菩提を祈る信仰で、法会の間は諸国の末寺から僧侶が集い、真言律宗総本山「西大寺」において勤修しました。なお、「光明真言会」は現在でも毎年10月3日から5日の3日3夜の間行われます。

 1267年(文永4年)叡尊は真言律宗「般若寺」を復興し、失われていた本尊を発願して、「文殊菩薩丈六像」を安置し、更に飢者数万人を救い、非人救済の他、殺生禁断や、架橋事業などでも活躍し、翌々年にも「般若寺」で無遮の大会を開き、非人3千人に対し、人別に米1斗を布施して非人救済に力を尽し、また、叡尊は真言律宗の「法華寺」、「海龍王寺」、「福智院」、「白毫寺」、「額安寺」も再興しましたが、当時の「般若寺」や「額安寺」の伽藍は叡尊没後に戦火などで焼失しました。

 1273年(文永10年)2月叡尊は、内宮禰宜(ねぎ)荒木田親倫(あらきだちかみち)の進めに従って、4人の僧と共に西大寺から大和東山中の田原郷を通り、伊勢神宮に参宮して、宋本大般若経二部を奉納し、蒙古来襲に備え異国退散の祈祷を行い、異国降伏を祈り、1274年(文永11年)3月蒙古襲来(文永の役)で、この年の秋、叡尊は僧衆140人を率いて河内の「枚岡(ひらおか)神社」および摂津の「住吉大社」に参拝し、大般若経・金剛般若経を転読講讃(こうさん)、ついで僧衆120人と共に神崎川下流「河尻燈炉(とうろ)堂」の附近に一泊し、翌日海路で西宮へ向い、「広田神社」の南宮および本宮に参拝し、「住吉大社」の場合と同様の作法を行った上で、本宮の武具を拝見、更に難波の「四天王寺」で百部最勝王経を転読講讃しました。

 なお、蒙古襲来「文永の役」は神風が吹いて終ったが、逆襲の恐れは尚去らず、1275年(建治元年)3月叡尊は再び「伊勢神宮」に参宮し、「西大寺」から持参した図絵両界種子曼荼羅・釈迦三尊十六善神像・摺写(しょうしゃ)新訳仁王経十部・梵網経一部その他を奉納して、異国降伏を祈ったが、叡尊は伊勢の内宮を胎蔵界曼荼羅に、外宮を金剛界曼荼羅としてとらえていました。

 1279年(弘安2年)11月叡尊79歳は、後深草上皇(第89代天皇)に召されて宮中に入り、御前で「梵網経古迹記(ぼんもうきょうこせきき)」を講釈し、後嵯峨(第88代天皇)、後深草、亀山(第90代天皇)の各上皇を初め公卿以下59名に戒を授け、第91代後宇多天皇(亀山上皇の第二皇子)もまた菩薩戒を受け、叡尊に師弟の礼を執りました。

 1280年(弘安3年)3月叡尊は三たび僧衆を率いて「伊勢神宮」に参宮し、まず「内宮」に参り、ついで「風宮(かぜのみや)」で一禰宜延季(いちノねぎのぶすえ)と会い、その際一人の巫女(みこ)に託宣があって、「今度の異国の難ならびに天下泰平・仏法繁昌のための祈願神慮にかない、成就疑いなし」とあり、また、この年の叡尊は河内(大阪府八尾市国分)の「教興寺」に鐘を鋳て奉納し、仏法興隆を祈りました。

 1281年(弘安4年)7月蒙古来襲(弘安の役)の時、石清水八幡宮で異国退散の祈祷を行い、叡尊が「東風を以って兵船を本国へ吹き送り、来人を損なわずして所来の船を焼失せしめ給え」と祈ると、石清水八幡宮の上空で、雲の中から西大寺「 愛染堂」の秘仏、国重文「愛染明王座像」が持っていた鏑矢(かぶらや)が現れて、北九州多々良(たたら)浜へ飛んで行き、蒙古の大将の胸を射止め、また、博多では大風が吹きまくり、蒙古軍が退散したので、朝廷および鎌倉幕府から賞賛され、亀山院の帰依を受けました。

 1283年(弘安6年)叡尊が岩田郷の「広読寺」で105人に、また、 三輪で440人に菩薩戒を授けたことが「感身学正記」に載っており、また、翌年9月叡尊は院宣によって、難波の「四天王寺」別当に任命されたが、一旦は断ったけど、「四天王寺」が自らが信仰する聖徳太子ゆかりの寺院なので承諾しました。

 1290年(正応3年)8月4日叡尊は西大寺で病にかかり、25日に享年90歳で入滅し、27日寺の西北「体性院」で荼毘(だび)に付されましたが、彼は生前に「感身学正記」「梵網古迹文集」などを著して、戒経を講ずること1万7百余回、戒を授けた者6万6千余人、漁猟を禁じて放生を置くこと千3百5十余ヶ所、餓者を救うこと1万余回も行って、1300年(正安2年)第93代後伏見天皇からその徳を讃えて「興正(こうしょう)菩薩」の諡を賜りました。


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