奈良町  その7


 融通念仏宗豊成山「徳融寺」

 「安養寺」の前の南北に延びる道をちょっと南へ行くと、「徳融(とくゆう)寺」です。元は「元興寺」の別院で、本堂の左前に歌が彫られた石塔(歌碑)が建っていますが、これは、松永弾正久秀が1560年(永禄3年)多聞城を築く時に持ち去ろうとした石塔婆で、「高林寺」に住んでいた連歌師の心前が次の歌

 曳(ひ)き残す 花や秋咲く石の竹

を詠んで、久秀に送ったら、連歌のたしなみがあった久秀が非を悟って、石塔をそのまま置いときました。また、境内に市指定文化財「毘沙門堂」も在ります。
 豊成公と中将姫の「供養塔」

 「徳融寺」は奈良時代の高官、右大臣藤原朝臣豊成とその娘中将姫の旧蹟で、豊成は南家武智麻呂(むちまろ)の子で、仲麻呂の兄です。境内の「観音堂」の裏に豊成と中将姫を祀る宝篋印(ほうきょういん)石塔が二基建っています。石柱の直ぐ後ろが豊成公の墓で、奥の石塔が中将姫の墓です。なお、豊成公の石塔の陰になって真ん中で赤い前垂れを結んでいるのは、四面に仏像を浮き彫りにした四方仏石で、正面が薬師如来、そして、右回りに釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫られ、鎌倉中期の作です。また、脇の石柱には、歌舞伎「中将姫雪責(ゆきぜめ)」を公演する前ここへ詣でた片岡仁左衛門の名前が刻まれています。

 中将姫伝説「虚空塚」

 藤原鎌足から続く藤原四家(北家、南家、今日家、式家)の南家の右大臣藤原豊成の娘中将姫は747年 (天平19年)に生まれ、5歳の時に生みの母が亡くなりました。そして、後妻に来た継母(ままはは)の「照夜ノ前」がいけずな女で、家来に命じて中将姫を崖の上から突き落としました。それが写真の崖です。ここは「徳融寺」の本堂の裏、崖の上に「虚空塚」が在ります。なお、突き落とされた中将姫は、常日頃の信仰の力に助けられ、太陽のごとく空中に浮かび怪我1つしませんでした。また、中将姫は継母から盗みの疑いをかけられ、雪の降る朝、老松(昭和29年まで切り株が在り)の下で割竹打ちの折檻を受けました。




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