奈良南西部 西の京  その8

喜光寺(TEL 0742-45-4630)の「南門」

 「安康天皇陵」から又東の方へ戻って、「歯痛地蔵尊」の辺りから北へ向い、「県道1号奈良生駒線」の陸橋を渡ると、薬師寺の末寺、法相宗清涼山「喜光寺(きこうじ)」です。721年(養老5年)5月行基が元明太上天皇の勅願により、土師(はじ)氏の一族寺史乙丸(てらノふひとまる)の屋敷を寄進され、生涯建てた49院の1つとして創建し、菅原寺(現在も額は菅原寺)と呼ばれたが、748年(天平20年)11月聖武天皇が参詣の時、本尊より不思議な光明を放ったので、以後「菅原寺」を改めて「喜光寺」と呼び、また、東大寺大仏殿が喜光寺を10倍に模して雛形とし、喜光寺を「大仏殿試みの御堂」と云います。
法相宗喜光寺の国重文「金堂」

 金堂は、1544年(天文13年)室町時代に再建され、外から見ると2階建てに見えますが、薬師寺の塔と同様に裳階を付け、中が吹き抜けの1階建です。上層支輪の辺りに格子の天窓を付け、夕方西日が差し込み阿弥陀の来仰を彷彿させ、ご本尊は木彫寄木造、下地漆塗り金箔仕上げ(但し、今は禿げ金)で、像高2.33mの阿弥陀如来(重文、平安時代)。脇侍は左が観自在菩薩、右が勢至菩薩、いずれも重文で像高1.6m余り、ご本尊より新しく南北朝時代の作で、行基菩薩の時代の仏様では無いけど、東大寺造営にも活躍された行基菩薩は晩年、喜光寺に引きこもられ、749年(天平21年)2月2日に入寂されました。
喜光寺境内の西隣にある「一乗院宮墓」

 喜光寺(入山料300円、9:00〜16:00)の西隣に宮内庁管轄の「一乗院宮墓」が在りますが、これは元、奈良興福寺一乗院の宮様が晩年、喜光寺に住まわれて亡くなられた御陵です。また「喜光寺」の境内には、石川女郎(いしかわノいらつめ)の詠んだ万葉集巻20−4491の歌碑も1つ建っています。

  大き海の水底(みなそこ)深く思いつつ
    裳引(もび)き平(な)らしし菅原の里

藤原宿奈麻呂(すくなまろ)の妻、石川女郎が夫から離別されて、悲しみに沈んでいる時に詠った歌です。
菅原天満宮(TEL 0742-45-3576)

 大和西大寺の南で、秋篠川の西の辺りは、その昔菅(すげ)が繁っていたので菅原の里と呼ばれ、遷都で桜井市出雲から移った野見宿禰の子孫、土師(はじ)氏が居住し、菅原道真の祖々父の時に地名を取って菅原と改称しました。喜光寺の北東に在る「菅原神社」は、道真の母の故郷で、祭神に天穂日命(あめノほひノみこと)、野見宿彌、菅原道真を祀っていますが、日本書紀によると、天穂日命は天照大神が生んだ五柱の男神の第二子で、葦原中国平定の時、高天原から最初に地上に使者として下った神で、そのまま出雲に留まって出雲臣(出雲大社の神官の祖)や、土師連らの先祖で、菅原道真は土師氏の17代目に当たります。
 菅原はにわ窯公園(埴輪窯跡群)

 「菅原天満宮」から東へ行き、住宅地の外れ、近鉄橿原線の脇に「菅原はにわ公園」があり、公園は又、菅原東遺跡「埴輪窯跡群」で、今から約1500年前(6世紀)ここで埴輪を焼いていました。平成2年の調査で、6基の窯跡が見つかって、3号窯を展示していますが、全て斜面地を斜めに掘り抜いたトンネル状登窯で、窯の入口付近で火を焚くと、熱がトンネルの中を上昇して、窯の中に並べられた埴輪を焼き上げる様になっており、円筒埴輪や朝顔形埴輪を始め人物、馬、鳥、家、盾、太刀、蓋(きぬがさ、貴人に差し掛ける傘)、靭(ゆき、弓矢をいれる道具)等を形取った埴輪がここで作られ、秋篠川を船で運ばれました。




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