南山の辺の道  その3

 景行天皇山邊道上(やまノべノみちノへ)陵

 崇神天皇陵から南へ1キロ行った天理市の最南端、渋谷町に在るのが、第12代景行天皇陵の「渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳」です。全長300m、前方部幅170m、後円部径168mで、周囲に濠を巡らし3段に構築され、なお、周辺に陪塚を幾つも持ち、崇神天皇陵らと共に「柳本古墳群」を形成し、造築時期は古墳時代中期と考えられている黒塚古墳を除き、殆どが古墳時代の前期と推定され、景行天皇陵は前期古墳では全国でも最大規模の古墳で、大列石遺構や円筒埴輪列等が出土し、また、景行天皇は身長1丈2寸、脚長4尺1寸の大男で、80人の御子がいて、日本武尊の父で、纏向の日代宮で天下を治めました。
 山の辺の道から見た「三輪山」

 第12代景行(けいこう)天皇陵の背後(東側)に「山の辺の道」が通って、この辺りから三輪山(標高467m)が全容を現して来ます。古代から三輪明神(大神神社)の御神体として崇拝され、「古事記」の三輪山神話では、御諸山(みもろやま)とも称され、また、第38代天智天皇が667年(天智6年)3月飛鳥から近江の大津へ遷都(せんと)の時、額田王が「山の辺の道」のこの辺りで振り返って詠まれだ歌が万葉集にあり、その歌碑がこの辺りに建っています。

 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも
 隠さふべしや  万葉集巻1−17の反歌、18
 景行天皇纏向日代宮跡

 額田王(ぬかたのおおきみ)の万葉の歌碑を見て、「山の辺の道」を南へちょっと進むと、この辺りから奈良県桜井市です。また「山の辺の道」から少し外れて、東の山間部へ辿ると、桜井市穴師(あなし)で、道の脇に石碑「景行天皇纏向日代宮(けいこうてんのうまきむくノひしろノみや)跡」が建っています。第12代景行天皇は、第11代垂仁天皇の第二皇子で、母は比羽州比売命(ひばすひめノみこと、丹波道王の娘)、妃の伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)との間に五人の皇子が有り、その内二皇子が双生児の大碓命(おおうすノみこと)と小碓命で、兄の大碓命を殺した小碓命が日本武(やまとたけるノ)尊です。
 相撲発祥の地「カタヤケシ」

 「景行天皇向日代宮跡」の碑を右に見て、更に山の方へ辿って行くと、また右側に「相撲神社」が在り、北側奥まった所に1平方メートルに高さ1メートル程石を積んだ上に小さなお社が建ち、その境内に写真の様な広場が在ります。ここが今から二千年前垂仁天皇7年7月7日、野見宿彌(のみノすくね)当麻蹶速(たいまノけはや)が我が国で最初の勅命天覧相撲を行った大兵主(だいひょうず)神社神域内小字カタヤケシで、勝負は野見宿彌が蹴りを入れて、当麻蹶速の肋骨をへし折って殺しました。出雲から来ていた野見宿彌は、その後奈良に留まり、長谷寺の近くに屋敷を賜って朝廷に仕え、生贄に代え埴輪を考案しました。

 穴師坐岳主神社(TEL 0744-42-6420)

 「相撲神社」から山間部へ入ると、穴師山に「穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社」が鎮座し、創建は垂仁天皇2年で、祭神は御食津(みけつ)神です。天孫降臨時の三鏡の一面を御神体とし、天皇の御膳の守護神、元は巻向山の山中にあった「上社」ですが、応仁の乱で焼け出され、現在地に元々あった「下社」の「穴師大兵主神社」に移って主客転倒し、江戸時代に柳本藩主の尊崇を集め、明治7年に再建された三つ屋造の中央社に祀られ、また、左社に末社「大兵主神社」を祀り、末社の祭神は大兵主神で御神体が鉾で、武勇の神、右社にやはり合祀の末社「巻向坐若御魂神社」を祀り、合祀の末社の祭神は若御魂神です。
 国史跡「珠城山(たまきやま)古墳群」

 「穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社」で折返し、「相撲神社」の南側を西へ向い、「山の辺の道」を越して穴師集落を西へ向うと、「珠城山古墳」があります。東西に並ぶ前方後円墳で、冠帽片、金洞中空勾玉、鉄鉾、鉄刀、鉄刀子等の副葬品が出土し、1号墳は全長約50m、後円部径約24m、後円部南に開口した横穴式石室を設け、中央部にあった組合せ式石棺は今橿原考古博物館前に展示で、2号墳は全長約90m、後円部径約45m、埋葬施設は不明。3号墳は全長約50m、後円部径約24m、近年まで前方部と後円部の南に開口する横穴式石室があったが、開墾や採土で形が変わり、今は前方部の先端だけです。
 「垂仁天皇纏向珠城宮跡」伝承地

 「山の辺の道」は、「珠城山古墳群」の東を通っているが、「新池」に沿って西へ向うと、国道169号線の手前で、右(北)側の道端に「垂仁天皇纏向珠城宮跡」の石碑が「龍王山」を背にして建っています。この辺りが、「日本書紀」に「纏向(まきむく)に都し、珠城(たまき)の宮という」と書かれた第11代垂仁天皇の「纏向珠城宮跡」伝承地です。「帝王編年記」では、宮の位置を「今巻向河北里の西の田中也」としています。垂仁天皇は、第10代崇神天皇の第三皇子で、名を活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)と云い、母は御間城姫(みまきひめ)で、在位99年、諸国に池溝を開きました。




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