奈良南西部 西の京  その11

「八所御霊神社」

 近鉄大和西大寺駅から北西へ徒歩約20分、奈良競輪場の西に「秋篠寺」が在るが、その「南門」に向かって左手前に「八所御霊(はっしょごりょう)神社」が鎮座しています。元は「秋篠寺」の鎮守で、室町時代の建立と推定され、県文化の本殿は、三間社流造、祭神は、歴史の狭間で諍いによる様々な争い事により怨みを呑んで亡くなった人々が祀られ、主な祭神は、785年(延暦4年)9月24日長岡京の造宮使藤原種継を暗殺した首謀者の疑いをかけられた桓武天皇の弟で、冤罪で憤死した皇太子の早良(さわら)親王。また、謀反のかどで自殺した桓武天皇の第三皇子伊予(いよ)親王。他、吉備真備藤原広嗣ら8柱です。
秋篠寺(TEL 0742-45-4600)

 「八所御霊神社」の鳥居の直ぐ横に写真の様な「秋篠寺の南門」が両側に低い土塀を付けて建ち、境内へ入ると一面苔だらけの中に礎石が散らばって、沢山の灌木が繁り、参道の左右の雑木林の中に東西両塔跡の礎石が埋もれ、昔はそこに金堂も建っていたが今は歌碑等が建っていて、広い雑木林の境内を抜け受付で拝観料を払って入ると、直ぐ目の前に国宝の「本堂」が建っています。単立寺院、阿?縛狗山「秋篠寺」は、光仁天皇の勅願により、780年(宝亀11年)善珠(ぜんじゅ)僧正の開基で、奈良朝最後の官寺です。当初は金堂、講堂、東西両塔を持つ大寺院でしたが、1135年(保延元年)の兵火で殆ど焼失しました。
秋篠寺の国宝「本堂」

 秋篠寺は1135年(保延元年)講堂だけ残して殆んど焼失し、残った講堂を鎌倉時代に改築したのが、間口5間、奥行4間、一重、寄棟造のどっしりとした本堂です。堂内中央に810年代(弘仁時代)の模作で、室町時代の国重文の本尊「木造薬師如来像」が、平安中期頃作の両脇侍像を従えて安置され、向かって左端に立つのは、天平の美女、万物創造の主・摩醯首羅店(まけいしゅらてん)の頭上から生まれ、掘辰雄が、「東洋のミューズ」と称讃した国重文「木造伝伎芸天立像」で、乾漆頭部は天平時代、木造の体部は鎌倉時代に運慶が復元し、僅かに頭をかしげ、口元に笑みを湛え、心持ち腰をしなやかに捻って魅力的です。
「香水閣(こうすいかく)」

 また、「本堂」の西側斜め前が「大元堂」で、堂内に高さ約2m、重文で秘仏の「大元帥明王立像」を安置し、更にバス停「秋篠寺前」へ出る東門の横に明王が出現された清浄香水の湧出る井戸のある「香水閣」が建っています。834年(承和元年)に小栗栖の常暁(じょうぎょう)律師が当寺に参詣し、2m四方で、深さ約1m、底に玉砂利を敷き詰めた井戸に顔を写すと、背後に忿怒の形相もすさまじい明王が、首と腰と六臂と両足に十数匹の蛇を巻きつけて出現したので、その姿を描き、後に修法のため入唐したら、元照大徳から明王の秘法を授けられました。なお、「大元堂」と「香水閣」は共に毎年6月6日結縁開扉されます。




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