佐保、佐紀路辺り その10

 海龍王寺(TEL 0742-33-5765)

 「春日社」の北隣、バス道路に面して真言律宗「海龍王寺(かいりゅうおうじ)」です。731年(天平3年)光明皇后の発願により創建され、皇后宮(後の法華寺)の北東角で、隅寺と呼び、開基は僧の玄ム(げんぼう)、彼は、717年(養老元年)阿倍仲麻呂吉備真備(きびノまきび)等と入唐し、734年(天平6年)10月帰国の際、難破して船が沈みそうになった時、海龍王経を必死に唱えたら海が穏やかになり、無事に帰国、それに因んで寺名を「海龍王寺」とし、彼が持ち帰った一切経5048巻は書写され、日本における写経の始まりです。また後に、叡尊が居住し、1288年堂宇を修造して、経蔵を建立しました。
 奈良市文化「海龍王寺本堂」

 「海龍王寺本堂」は、奈良時代に建っていた中金堂の位置に、1665年頃(寛文年間)建てられ、入母屋造、本瓦葺、桁行5間、梁間4間、深い軒(のき)の出と勾配のゆるい屋根、それに堂内の柱配置が整然としていること等、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多く、江戸時代の建物ではあるが古風な造りで、古い伝統建築の様式が好まれた奈良の地域性を知る事ができる貴重な建物で、本尊は「十一面観音立像」、高さ1m、鎌倉時代の作で、全身金色に輝き、宝冠や胸飾り美しく、また、西隣の「西金堂」は奈良時代の建立で、堂内に奈良時代の国宝「五重小塔」が納められ、極彩色、高さ約1mで、古代の塔のモデルです。
 法華寺(TEL 0742-33-2261)

 「海龍王寺」の西隣が、大和三門跡の1つ真言律宗「法華寺」です。「法華滅罪之寺」「氷室御所」とも呼ばれ、747年(天平19年)頃、光明皇后が父・藤原不比等の旧宅を改築し、父と母・橘三千代の菩提を弔う為に尼寺として創建され、749年(天平感宝元年)諸国の国分尼寺を統括する総国分尼寺になり、以後平安時代に造法華寺司によって東西両塔、金堂、講堂、食堂、鐘楼、南門、東門、中門等も建立され、大伽藍が整うと、入寺を希望する女人が後を絶たず、平安時代末は入寺に勅許が必要でしたが、1180年(治承4年)平重衡による奈良責めの兵火で被害を被り、中世以降はしだいに衰微し、今に至っています。
 法華寺の国重文「本堂」

 「法華寺」は、鎌倉時代に真言律宗総本山「西大寺」の叡尊が復興を助け、尼僧達に戒律を広げ、この時に真言宗に属し、また、関ヶ原合戦の後、1601年(慶長6年)豊臣秀頼と淀君の発願により、奉行片桐旦元が「本堂」「南門」「鐘楼」を再建し、現在も廻廊の擬宝珠(ぎぼし)に、秀頼と淀君の名が見えます。なお、本堂に安置されている本尊は、光明皇后をモデルにインドの仏師・問答(もんどう)が来朝して彫った3体の1つ、国宝の「木造十一面観音立像」で、高さ約1m、白檀(びゃくだん)の一木造、放射する蓮の花と葉の柄で作られた光背を背に、8等身でなくても魅力的で、和辻哲郎も「古寺巡礼」で讃えています。




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