飛鳥  その4

岡寺 (龍蓋寺)
 岡寺(TEL 0744-54-2007)の仁王門

 「石舞台古墳」から山道を北へ登って行くと、西国三十三所第七番札所、 真言宗豊山派「岡寺」があり、国重文の「仁王門」の再建は、墨書より、慶長十七年(1612年)で、三間一戸、入母屋造、本瓦葺の使用部材は、ほとんどが以前の物を転用した古材です。「仁王門」を入り石段を上がって、県文化の「楼門」をくぐると、境内に国重文の「書院」や、1805年(文化2年)上棟の「本堂」が建っていて、663年(天智天皇2年)義淵(ぎえん)僧正の創建です。彼は、大和国高市郡天津守(あまつもり)で、白い帷子(かたびら)に包まれ、芳香を放ち、夜泣きしていた赤ん坊の時、観音様の導きで養父母に拾われました。
 岡寺の境内および「本堂」

聡明な幼童の義淵は、噂を伝え聞いた第38代天智天皇に引き取られて、草壁(くさかべ)皇子と共に岡宮で育てられ、剃髪して法師になり、元興寺にいた新羅の智鳳(ちほう)から法相宗を学び、道昭に続いて我が国法相宗の確立に貢献し、興福寺で僧正になって、663年岡宮の一部を賜り、伽藍を建立、重文の「金銅如意輪観音半跏像」を安置したのが始まりで、正式には、東光山真珠院龍蓋寺(りゅうがいじ)と称し、重文で丈六の本尊「如意輪観音坐像」は、弘法大師がインド・中国・日本の三国の土で、先の観音像を胎内に籠めて造り、高さ4.58m、塑像では我が国最大、他に国宝の「木心乾漆義淵僧正坐像」もあります。

 岡寺の「龍蓋池(りゅうがいいけ)」

 なお、「岡寺」は奈良時代に、上座、寺主、都維那(ついな)の三綱(さんごう、寺院の僧侶を統率し、寺務を司る3人の役僧の事)をもった官寺で、行基東大寺の良弁(ろうべん)、良敏(りょうびん)、道慈(どうじ)、玄ム(げんぼう)、道鏡らの奈良時代に活躍した高僧も皆、義淵僧正の弟子でした。また、本堂の前に「龍蓋池」が在ります。これは昔、明日香村に大雨を降らせて暴れまわる龍が1匹住んでいて、悪い事ばかりをするので里人が難渋していましたら、「岡寺」の義淵和尚が法力で龍を捕らえて、池に封じ込め、石に「阿」の字を書いて蓋をしました。以後、お寺の名をこれに因んで「龍蓋寺」と称しています。
 観音霊場「岡寺」の「三重塔」

 「岡寺」の境内をちょっと上がると、昭和61年に再建された「三重塔」が建っていますが、元の塔は、1472年(文明4年)7月21日夜半大風が吹いて倒壊しました。なお、遠く麓の「川原寺跡」辺りからでも東方を見ると、山腹に朱色の塔がはっきりと望まれます。なお、三重塔から更に少し登ると、728年に亡くなられた義淵僧正の墓と伝える「石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が建っていますが、刻銘は延文五年(1360年)になっています。また、平安時代末から西国三十三か所第七番札所として観音信仰を集めて来た「岡寺」は、江戸時代に貴賎衆庶民の巡杖場で賑わい、1772年(明和9年)3月本居宣長も参詣して、「菅笠(すげがさ)日記」に、「朝まだきに宿を立ちて、岡寺に詣づ。里より三町ばかり東の山へ登りて仁王門あり。額に龍蓋寺とあり。この門より前の道の左の方に八幡とて社もあり。さて御堂には観音の寺々拝み巡る者ども、笈摺(おいずる)とか云ふあやしげなる物を内着たる」と書いています。
 治田(はるた)神社

 「岡寺」の山門を出て、真っ直ぐ西へ進むと、道が二股になり、そのまま真っ直ぐ右(北)側の道を行くと、「治田神社」の境内です。石段を下りると、二股で分かれた「岡寺」の参道へ出ます。また、「治田神社」の創立年代は明らかではありませんが、平安朝以前と云われ、昭和57年の神社境内の発掘調査で、基壇の一部が出土し、礎石が今もありますが、白鳳時代の古瓦も見つかっているところから、この付近も「岡寺」旧伽藍であったものと推定されています。なお「治田神社」は、元々は治田氏の神々を祀っていましたが、1440年代(文安年間)に一時、大国主命の和魂である大物主命を祀ったことが古書に書かれています。



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