法隆寺の見所
|
1993年(平成5年)12月日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録された法隆寺は、国道25号線のバス停「法隆寺前」から西へ行き直ぐ右折して、北へ向い長い松並木の参道を突き当ると、法隆寺の総門「南大門」ですが、石段を上がる前に足元を見ると、魚の形をした一際(ひときわ)大きな石が埋め込まれています。これは法隆寺七不思議の1つで、大雨が降り洪水になっても、ここで水が止まる「鯛石(たいいし)」で、石を踏むと水難に遭わないそうです。
更に、口を閉じた雄の「鬼瓦」と、口を開けた雌の「鬼瓦」が乗っている「南大門」をくぐって、築垣(ついがき)で挟まれた参道を進むと、正面に飛鳥時代建立の「中門」があり、よく見ると、他のお寺と違い、間口が偶数の4間で中央に柱が建っています。これは不吉な門で、「子孫が絶える門」と云われ、聖徳太子には4人の妃に14人の子がいたが、すべて抹殺され、太子の子孫は1人も残っていない事からも頷(うなず)けます。更に、正面5本の柱間隙は中国の建築様式にならって両脇よりも中央が1.5倍広くなっており、左右に延びている回廊の長さは、左側が33.5m、右側が37mで、右側が3.5m長くなっていますが、中央に立って見ると、バランスが取れているから不思議です。また、左右に立つ塑像の仁王さんは、我が国最古、天平時代唯一の遺構で、金剛杖を持たない素手の「金剛力士」ですが、法隆寺七不思議の1つ「雀が境内で糞をしない」ので仁王さんの前に金網のネットなど張られていません。 なお、「中門」の前が東西 340 m の長い参道で、左に「西大門」、右に国宝の「東大門」が望まれ、参道脇の「表門」を持つ築垣も重文ですが、「表門」の前に竹で囲んで注連縄を張った一画があります。誰も見向きもされず通り過ぎるけど、これは法隆寺七不思議の1つ「地下の伏蔵(ふくぞう)」の入口を塞いだもので、地下に莫大な財宝が隠され、法隆寺存続にかかわる有事の際にのみ開けられます。これと同じ「伏蔵」は「金堂内陣」の地下と、「経蔵」の地下にもあります。また、法隆寺七不思議の1つに「雨垂れの穴がない」と云うのがあるから、雨降りの日に行かれたとき、樋のない築垣の下をよく見ると良いと思います。 なお、「中門」を入らずに境内の西側を北へ向うと、奥の高台に「西円堂」が建っていますが、その手間の右側が「西室(にしむろ)」の「三経院」で、三経とは昔、聖徳太子が注釈された三つの経典(勝鬘経、維摩経、法華経)のことを云い、今でも法隆寺では、毎年5月16日〜8月15日の3ヶ月間が「夏安居」で、お坊さんが托鉢を行わず、一つの場所に籠って修学され、西室では「法隆寺夏季大学」を開催して、毎年千近い受講者が全国から集まり、仏教史、仏教美術、寺院建築、考古学などを学ばれます。また、西室の西側の築地塀の丸瓦に徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋」があります。 そして、法隆寺の北西角の高台に建つのが「峰の薬師」を安置する「西円堂」で、本尊は 錐を耳に当てて祈ると耳の病が治る「薬師如来」で、天平仏だのに左手に薬壺を乗せ、毎年2月3日(午後7時頃〜)追儺式(ついなしき)が行われ、向拝のある「西円堂」の基壇上で黒鬼、青鬼、赤鬼がそれぞれ所作を行って松明を投げ、その後に毘沙門天が現れて鬼を追い払います。また、「西円堂」の東側に明治22年造立の「時の鐘」が吊るされ、午前8時、10時、12時、午後2時、4時に、時の数だけ撞かれ、明治28年10月26日正岡子規が柿を食べながらこの鐘の音を聞きました。 また、法隆寺七不思議の1つ「蜘蛛が巣を張らない」中央に戻って、「中門」の西側から回廊内に入ると、目の前に我が国最古の「五重塔」が二重基壇の上に建ち、1階の裳階(もこし)の上に邪鬼が座って1階の屋根を支え、相輪の露盤に元禄の頃、徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院が修理をした徳川の家紋「三つ葉葵」が見えるけど、それより法隆寺七不思議の1つ「相輪に4本の鎌」が架かって、鎌が上ると豊作、下がると凶作になると云われています。なお、五重塔1階内陣の塑像群は、東面が「維摩居士と文殊菩薩の問答」、西面が「舎利(釈迦の遺骨)の分配」、南面が「弥勒菩薩の説法」、北面が「法隆寺の泣き仏」を伴う「釈迦の涅槃」です。 なお、「五重塔」の東隣が世界最古の木造建造物の「金堂」です。中国の六朝様式で正方形に造られ、1階に裳階を持ち、他のお寺よりも柱が太く、1階が5間、2階が住居空間のない4間で変っており、2階の四隅の軒下に建つ「龍の彫刻を施した柱」は 元禄時代に付け足された物で、地下に「伏蔵」を持つ内陣に聖徳太子のための「金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)」、太子の父・用明天皇のための「金銅薬師如来座像(飛鳥時代)」、母・穴穂部間人皇后のための「金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)」が、我が国最古の「四天王」に守られて安置され、天井に天人と鳳凰が飛び交う天蓋を吊し、周囲の壁面に昭和24年に焼損した見事な壁画の模写がはめ込まれています。 そして、「五重塔」と「金堂」の北側に仏教を研鑽して、法要を行う「大講堂」があり、990年(正暦元年)再建された時に彫られた「薬師三尊」と「四天王」が安置され、西隣の「経蔵」の地下にも法隆寺七不思議の1つ「伏蔵」があり、莫大な財宝が隠されています。また、「経蔵」と相対して東に建つ「鐘楼(しゅろう)」は 925年(延長3年)大講堂と共に落雷で焼失し、現在の「鐘楼」は「経蔵」の様式にならって再建されたもので、中に吊るされている奈良時代前期鋳造で重文の「梵鐘」は、年中行事の時(夏安居の9:00)にだけ撞かれます。また、中庭に建つ灯篭は 桂昌院の寄進で、徳川の「三つ葉葵」と桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋」があります。更に、「大講堂」の裏に「上御堂」が建っていますが、通常は入れず、毎年11月1日〜3日にだけ開放され、国宝の本尊「釈迦三尊像」は 3月に1ヶ月特別開扉されます。 なお、回廊を出ると東隣が東室(ひがしむろ)の「聖霊院(しょうろういん)」です。安置されている秘仏の「聖徳太子坐像」は 毎年3月22日13:00〜、お会式(えしき)で開扉され、脇侍の「山背王(やましろノみこ)」、「殖栗王(えぐりノみこ)」、「卒末呂王(そまろノみこ)」、「恵慈(えじ)法師」坐像と共に藤原時代の国宝です。また、東隣奥の「大宝蔵院」に向う所の角、「妻室」の端に格子戸のはまった「馬屋」には、金網の中に聖徳太子の愛馬「黒駒」の手綱を取って舎人の「調子丸」が立っていて、この辺りでも法隆寺七不思議の1つ「境内で雀が糞をしない」そうです。 更に「妻室」と相対して建つ「綱封蔵(こうふうぞう)」は昔、法隆寺に三十三棟建っていた物の1つで、奈良時代の建物です。また、「細殿(ほそどの)」と軒を接して建って双堂の「食堂(じきどう)」を右に見て「大宝蔵院」に入ると、「百済観音堂」があり、平成10年に堂が建立される迄、フランスを始め、あちこちへ放浪された八頭身の「百済観音(像高2.09m)」が安置され、なお、「大宝蔵院」には 推古天皇の念持仏「玉虫厨子(側面に釈迦の前世譚、飢えた親子の虎に我が身を与える「捨身飼虎」は 最古の仏教壁画)」、「夢違観音」、「九面観音」、唯一の国宝「地蔵菩薩」、塑像の沓が破れ5本の足指が出た「帝釈天」、光明皇后の母「橘夫人の念持仏」など良く知られた宝物が安置され、法隆寺には国宝が115点、重文が1955点あり、また、法隆寺七不思議の1つ「伽藍の堂塔に蜘蛛が巣を張らない」そうです。 西院伽藍と東院伽藍の間に建って「中ノ門」とも呼ばれる「東大門」は、天井が2つの山形の棟の上にもう1つ山形の棟が乗る珍しい「三棟(みつむね)造り」で、奈良時代によく造られ、東大寺の「転害門」と同じ造りで、三間一戸の本瓦葺、切妻造八脚門です。 「東大門」をくぐった東正面に見える屋根は東院伽藍の中心「夢殿」ですが、そこへ至るまでの参道脇、左側の築垣内には赤い実を付ける「もちの木」が繁り、右側の築垣の中に因可池(よるかのいけ)があり、法隆寺七不思議の番外、「因可池の蛙は片目がない」そうです。なお、「上宮王院(東院)夢殿」の札が架かった「四脚門」をくぐって入った「夢殿」は、我が国最古の八角円堂で、内陣に聖徳太子と等身大(178.8 cm)の秘仏「救世観音」が安置され、毎年4月11日〜5月5日と、10月22日 〜11月3日に開扉されるけど、「救世観音」には 太子の怨霊を封じるため、頭に釘が打ち込まれています。また、法隆寺七不思議の1つ「夢殿の礼盤(お経を唱えるときに座る台)の下は常に汗をかいて湿っている」とかで、毎年2月11日「夢殿のお水取り」で虫干され、出た水分の量で豊作を占います。 なお、「夢殿」の北側に「舎利殿」があり、聖徳太子が2才の春(2月15日釈迦の命日)に東に向って合掌された掌の中から出た舎利(釈迦の遺骨)を安置し、毎年1月1日から3日間「舎利講」の法要が行われ、ご開帳(奉出)されます。また、西隣が「絵殿」で、聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵があり、更に北側に聖武天皇の妃・橘古那可智の宅を改造した「伝法堂」が建っていて、床がお堂には珍しい板張りで、堂内に多くの仏像が安置され、通常7月24日「地蔵会」の夕方に開扉されます。 そして、「夢殿」を出て、北へ直ぐの所に東院伽藍の「鐘楼」があり、建物は袴腰で、中に「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊され、正月の「舎利講」や、東院伽藍での法要の時に撞かれます。なお、「伝法堂」の裏を回って、平唐門では最古の「北室院表門」の前を通り、東へ向かうと、奈良三門跡の1つ「中宮寺」で、コンクリートの本堂に祀られている本尊はアルカイック・スマイルで知られる「弥勒菩薩半跏思惟像」です。 |