奈良の大仏鋳造のこと

 高さ15.8m、重さ 380t の盧舎那仏(るしゃなぶつ)が如何にして造立されたかは、余り知られていないけど、天平時代の大仏の面影は「信貴山縁起絵巻」で見ることが出来、大理石の二重の蓮華座が黄金色に輝き、眉は青、唇は朱に彩られていました。なお、造立されてから約100年の間に200回を超える地震があり、855年(斉衡2年)5月仏頭が重みで自然落下し、その後も、二度兵火に襲われ、現在の大仏は胴体が鎌倉時代、両手が桃山時代、少し面長になった首から上の頭部が江戸時代に再鋳造されているが、台座の蓮弁に鏨(タガネ)を使って見事な線刻で、梵網経(ぼんもうきょう、盧舎那仏を頂点とする三千大千世界に百億の仏国土を述べている)による宇宙の有様を描いた壮大な蓮華蔵世界の毛彫図が天平時代のまま残っており、金銅像として世界一大きな仏像です。

 また、足裏の長さ 3.74m で、座禅と同じ座り方の結跏趺坐(けっかふざ)で足を組んだ大仏は、手の指の長さ1.08m、右手が何物をも恐れぬ施無畏(せむい)印、手の平の長さ1.48m、左手が自らの意志を貫く与願(よがん)印で、長さ1.02mの目は見るものに惑わされる事の無い様に半眼に開き、耳は全ての願い事を聞き届けて下さるので長さ2.54mもあり、鼻高は52cm、穴が直径30cm、眉間の白毫(びゃくごう)も直径30cmで、智恵の偉大さを現していますが、着ているものは厳冬でも厳しい修行に耐えた粗末な納衣(のうえ)で、現在のお顔の長さは、天平時代より 60cm 長く 5.33m です。

 なお、大仏は始め、743年(天平15年)10月15日聖武天皇が近江国紫香楽宮(しがらぎノみや、滋賀県信楽町)で金銅盧舎那仏の大像を造る事を発願し、744年(天平16年)11月13日紫香楽の甲賀寺で現在の半分以下の大きさの大仏が造立され、丸太で塑像の体骨柱(たいこつちゅう、鋳型の中型の芯柱)を建て、骨組が組立てられたけど、造営に反対する者もあって、翌年の4月頃、放火による付近の山火事や地震で中断され、着工から2年後の5月11日天皇が5年ぶりに平城京へ還幸して、再度新しく建立されることに成りました。

 745年(天平17年)8月22日平城京左京外坊の東、大養徳(おおやまと)国山金里(やまがねノさと)金光明寺(大和国国分寺)で地鎮祭が行われ、聖武天皇も自ら衣の袖に土を入れて運び、その時に土を採られた跡が今の「大仏池」で、中国から伝わった版築(ばんちく)と云う方法で基礎を固めた座の上に、まず丸太で塑像(そぞう)の体骨柱を建て、骨組を組み、その表面に縄を巻き付けた割竹や細い竹で籠状の大仏を型取り、その上に厚さ30cmほど土を塗って塑像を造るのに1年と2ヶ月かかりました。

 746年(天平18年)10月6日塑像の前で大仏供養を行い、造った塑像を原型にして、これから鋳型を造る作業に移り、まず初めは、塑像の表面に薄紙を敷き、その上に30cm以上も土を重ねて外鋳型を造り、それを2m四方に区切って、1つ1つ外鋳型の位置に印を付け、薄紙の上から取り外し、次に塑像の表面を5cmばかり削り取り、これが鋳造する時の中子(なかご)です。

 外鋳型と中子を良く乾燥させた後、外鋳型を元の位置に戻すが、中子との間に型持を置き、削り取られた空間に溶けた銅が流れ込むように固定して、また外鋳型の上に土を盛り、更にその上に銅を溶かす炉を数十基置いて、747年(天平19年)9月29日大仏の鋳造に取りかかり、統率は大仏師・国中連公麻呂(くになかノむらじきみまろ、百済滅亡で渡来した一族の子孫三世)、大鋳師(だいいもじ)は高市大国(たけちノおおくに)、同真麻呂で、他に柿本男玉、大工猪部百世、益田縄手らが参画し、延べ260万3千人が従事して、炉に銅と錫を炭火と共に混ぜて投げ入れ、タタラで風を送りながら銅を溶かして流し込み、銅を流し終わる頃には大仏が土中に埋まっていたので、盛り土と鋳型を上から少しずつ取り除き、8段に分けて行い、3年間に渡って7回の失敗を重ね、最後の鋳込が終わったのは、749年(天平勝宝元年)10月24日でした。

 使われた銅は499t、山口県美東町(秋吉台の南東)の長登(ながのぼり)銅山などから女性までもが製錬にたずさわって採掘され、その際の逃亡者は年間88人、また、錫の使用は8.5tに達し、鋳型を取り去った大仏は全体にデコボコして、あちこちに裂け目や銅が流れ込まなかった部分もあり、不完全な部分を補う鋳加え作業が、750年(天平勝宝2年)に開始され、別に造った966個の螺髪(らほつ、高さ38cm、直径47cm)を1つずつ仏頭に3年以上掛かって取り付け、また、像の表面をヤスリや鏨(タガネ)で仕上げ、752年(天平勝宝4年)3月14日鍍金(めっき)に取りかかり、なお、余った銅は吉野山の「銅(かね)の鳥居」にも使われました。

 この様に鋳造だけなら3年ですが、大仏の原形を塑像で造り、金鍍金して完成までは10年以上もかかり、大仏造立発願(ほつがん)から9年後、752年(天平勝宝4年)4月9日大仏開眼供養の時でもまだ完成しておらず、顔だけの鍍金で開眼され、開眼供養を前にして始められた台座の鋳造は、756年(天平勝宝8年)7月に終わり、更に鋳浚(いさらえ)、鍍金など最後の仕上げが終わったのは、757年(天平勝宝9年)ですが、鍍金は水銀に金の小片や薄板、砂金などを化合させて金アマルガムを作り、これを表面に塗り付ける方法で、350度ぐらい熱すると水銀だけが蒸発し、金が表面に付着するけど、有毒ガスが発生するので大変困難な難作業だったと思います。なお、使用した金は、749年(天平感宝元年)5月大伴家持が万葉集巻18−4094、4097で詠っている様に陸奥(宮城県涌谷町)の国司・百済王敬福(けいふく、百済滅亡時に渡来した百済王一族)から献上された440kgで何とか間に合い、そして、水銀は 2.5tonも使用されています。

  天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に
  金(くがね)花咲く              万葉集巻18−4097 大伴宿弥家持

 なお、757年(天平勝宝9年)3月からは河内画師次万呂や上村主牛養らの指導で、蓮弁上部中央に説法相の釈迦とそれを聴聞する二十二菩薩や楼閣および円光中の仏頭・菩薩頭を、その下に須弥山世界を表わす蓮華蔵世界が鏨(タガネ)を使って線刻で描かれ、更に、763年(天平宝字7年)から536体(現在は520体)の化仏を付けた光背の製作に着手し、出来上がったのは8年後で、開眼供養が終わってから19年後、奈良時代末期、771年(宝亀2年)でした。また、最近になって「戒壇院」の東側斜面から7m四方、深さ4mの土坑や溶解炉、鞴(ふいご)の跡が出土し、造東大寺司の鋳銅所跡と考えられています。

 更に、大仏殿は大仏本体の鋳造が終わった749年(天平感宝元年)10月以後に工事が開始され、752年(天平感宝4年)頃に現在の大きさの1.5倍ほどもある建物が完成したけど、東大寺の諸伽藍の造営は、その後も引き続いて行われ、造東大寺司(どうとうだいじし)が廃止されたのは、都が長岡京へ移った789年(延暦8年)でしたが、平安時代に大仏の頭が傾き、855年(斉衡2年)地震で転がり落ち、861年(貞観3年)に修理され、開眼供養が行われたのに、1180年(治承4年)12月28日平重衡による4万の軍勢により奈良町の民家に放火した炎が風にあおられ、興福寺、東大寺に燃え移り、春日大社の東塔・西塔も焼失し、残ったのは元興寺・禅定院と付近の民家少々で、その時大仏殿の天井裏に避難していた老若男女1000人と共に大仏も頭と手が焼け落ちました。

 しかし、源平争乱の最中にもかかわらず、朝廷や貴族が再建に全力を傾け、後白河法皇の意を受け、造東大寺勧進職に任じられた浄土宗の老僧俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん、俗名は紀重定、始め宮中に仕え、後に出家して醍醐寺で密教を学び、諸国の名山や有名寺院で修行し、更に宋に3度渡って仏教や建築技術を習得して来た)61歳が勧進を行い、高齢の西行法師も奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらノひでひら)から5000両、源頼朝から1000両の砂金の寄付を得て、宋の鋳物師陳和卿(ちんわけい)ら7人と日本の鋳物師14人が協力して大仏が修復され、

 1185年(文治元年)大仏開眼供養を行い、後白河法皇みずから開眼の筆を取り、翌年の4月俊乗坊重源が伽藍指図の5分の1の試みとして宇陀市大宇陀町春日に松谷山菩提院「慶恩寺」を建立し、焼失から10年後、周防(山口県)の深山から良材を得て、1190年(建久元年)大仏殿の上棟式を行い、1195年(建久6年)3月後鳥羽天皇ご臨席で落慶(らっけい)供養が行われ、数万の軍勢を率いた頼朝も黄金1000両を寄進して、北条政子と共に参列し、その功で重源は大和尚(だいわじょう)の位を受けました。

 なのに、1567年(永禄10年)10月10日松永久秀(まつながひさひで)と三好三人衆の合戦による兵火で、又もや大仏殿が焼失し、大仏の頭部が焼け落ち、翌年朝廷が大仏再興の綸旨(りんじ)を出したが、外護者織田信長の死などで中断し、再興は容易に進まず、奈良東部の領主山田道安が私財を持って、鋳物師弥左衛門(やざえもん)らの協力で、大仏の頭を木で造り、銅版を張って仮修理をし、大仏殿も仮建築されたけど、1610年(慶応15年)大仏殿が暴風雨で吹っ飛び、大仏は銅版の頭のまま風雨にさらされて露座に居座り、また、大仏殿再建は莫大な費用を必要としたが、1684年(貞享元年)東大寺龍松院の公慶(こうけい、1652年丹後宮津で生まれ、13歳で東大寺大喜院に入り、英慶について得度、受戒する)が幕府から大仏再興の勧進許可を得て、大仏を再現するまでは床に横になって寝ない願掛けし、座って寝ながら勧進を行い、大阪商人北国屋治右衛門から銅5400キロを寄進され、大阪から奈良まで多くの人々の手渡しで運び、また、金1万1000両を集めて、大仏が焼け落ちてから100年以上も経った江戸時代中期、

 1691年(元禄4年)鋳物師広瀬弥右衛門国重らにより、5年の歳月を要してやっと3度目の大仏が完成し、翌年3月8日〜4月8日まで盛大に開眼供養が行われ、開眼導師は東大寺別当済深(さいしん)法親王で、1カ月に渡る法要に21万余人の参詣があって、救護所や迷子センターも設けられ、鯉にお面を被せて「人魚」とした見世物小屋も出て賑わいました。なお、公慶は、この功績により東山天皇から上人(しょうにん)の号を賜り、また、大仏殿は、公慶上人が引き続き再建の喜捨(きしゃ)を求めて行脚し、大和国添下(そえしも)郡超昇寺村(奈良市佐紀町)出身の隆光を介し、五代将軍徳川綱吉とその母桂昌院(けいしょういん)の援助により、総入用費12万1000両余りで、幕府の公的事業として、1705年(宝永2年)4月10日奈良奉行妻木彦左衛門を大仏殿再建の総監督として上棟式が行われたが、公慶上人は上棟式の礼に下向した江戸で同年7月に亡くなり、享年58歳でした。

 1708年(宝永5年)やっと大仏殿が完成し、翌年将軍綱吉の死の直後であったけど、3月21日〜18日間盛大な落慶法要が行われ、16万人の参詣がありました。なお、大仏殿建立に用いた木材は2万6000本余りですが、巨大な虹梁(こうりょう)2本を得るため、山口県にも赴いたが巨木が無く、やっと九州霧島の「白鳥明神」の参道で見つけ、長さ23.6m、重さ45トンの大木2本は、島津藩によって200余人の人夫と延べ4000頭の牛により、鹿児島の川口の浜まで引き出し、志布志の弥五郎の尽力により、鹿児島(錦江)湾から瀬戸内海を

通り、淀川から木津川を遡り、木津から奈良坂を通って運ばれました。でもなお巨木が足りず、当初計画していた大仏殿創建時(間口11間)の規模から3分の2に縮小され、間口7間になったが、それでも歴史的建造物として世界最大級の木造建築に変りは無く、また、大仏の光背の再興は、正徳・享保の財政難で幕府から援助が得られず、勧進により、1739年(元文4年)ようやく完成しました。


大仏様のお身拭い
     
国宝「盧舎那仏」尊像
   
頭のてっぺんに3人、顔の周りにも3人、更に膝の周りに多数、大仏さんがまるで小人の国のガリバーの様です。
   
昆虫なのに8本足の蝶(下記注)

(注)
 右写真手前の花瓶に止まっている蝶を良く見ると、足が8本(昆虫は普通6本足)あります。この理由は、本当の所は判らず、単に工匠が実物を見ずに誤って、8本にしただけかも知れませんが、別の解釈として、突然変異の可能性もあります。
 スイス・バーゼル大学のワルター・ゲーリング(Walter J. Gehring)博士が東大寺を訪れた時、8本足の蝶を見て、「歴史上最初のホメオティック突然変異の発見者は日本人だ」と仰いました。なお、「ホメオボックス遺伝子」とは、動物の体全体の構造を決める一群の遺伝子で、これに異変が起きると突然変異が生まれると云われています。
 参考資料:ホメオボックス・ストーリー―形づくりの遺伝子と発生・進化、ワルター・J. ゲーリング (著)、東京大学出版会 ; ISBN: 413060211X ; (2002/03)


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