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真言密教、真言八祖八代の空海、弘法大師のこと
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| 弘法大師、空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国(香川県)多度(たど)郡屏風(びょうぶ)ヶ浦の「善通寺」で生まれ、父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通(よしみち)、母は阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、空海は三男で、兄二人は幼時に他界し、空海は子供の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家)の跡取として育てられ、幼名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。なお、6月15日は密経経典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六祖「不空(ふくう)三蔵」が入滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。 |
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善通寺御影堂(大師堂)
空海の生まれた屋敷跡 |
善通寺東院にある楠の巨樹
真魚もこの巨樹を見て育った |
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| 777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳の頃は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国時に遭難死しました。
780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思います。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、天女と釈迦如来が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」を建立し、本尊として空海自ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。 781年(天応元年)4月15日平城京で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わって、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王が立太子に立ちました。 784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(約12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると3町の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として載っているが、この頃平城京からの遷都が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。 785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親二人が同じ夢を見て、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生まれた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄19歳が東大寺で具足戒を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が「乙訓(おとくに)寺」へ幽閉されて、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。 788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社に黒駒を奉じ祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あとノおおたり)に漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めていました。 791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)、土佐の室戸岬で求聞持法を行じましたが、室戸岬の洞窟で修行中、太平洋の彼方から明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛来して、「あ」と叫ぶと、口より胎内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、炭がまの煙出しの穴のことで、空海が教えました。 |
| 弘法大師修行の地 御厨人窟(みくろと) |
室戸青年19歳大師 の巨像、総高21m |
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793年(延暦12年)空海20歳が、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)で剃髪(ていはつ)して出家し、高円山の麓にあった岩淵寺で、三論宗の勤操(ごんそう)僧正により得度して、大安寺などで南都六宗の経典を学ぶと、翌年(延暦13年)10月都が未完のまま放置され、長岡京から平安京へ遷都されました。 795年(延暦14年)空海22歳は、東大寺戒壇院で唐の僧・泰信律師から戒師として具足戒を受け、「華厳経」、「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」等を学び、また、十輪院で朝野宿禰魚養(あさのノすくねなかい)から書を学びました。 796年(延暦15年)「羅城門」の東に王城鎮護のための官寺「教王護国寺(後に空海が譲り受ける東寺)」と「西寺」が創建されて、4月9日この時は空海が退学していた大学寮の上空に5、6羽の不思議な鳥が飛来し、その内の1羽が寮の南、門前に落ちたので、捕まえてよく見ると、鵜の様な鳥で、毛は鼠に似て、背に斑(まだら)の毛があったが、誰も名を知らなかったと「日本後紀(にほんこうき)」にあります。 797年(延暦16年)空海24歳は、三教(孔子の儒教、老子の道教、釈迦の仏経)の優劣を論じた我が国最古の戯曲、国宝「聾瞽指帰(ろうこしき、空海の真蹟本として高野山に現存)」一巻を「秦楽寺」で、暑い夏に煩(うるさ)い蛙を黙らせ、年も押し詰まった12月1日やっと書き上げましたが、この処女作は後の入唐に持参し、帰国後に序文を改め、十韻の詩の韻(いん)のふみ方など字句を修正して三巻に分けられ、登場人物5人で、三幕一場を構成し、三教の中で仏教が最も優れていることを説き、「三教指帰(さんごうしいき)」三巻に改名されて世に出ました。 なお、空海作の「遍照発揮性霊集(しょうりょうしゅう、編纂は弟子の真済が当り、10巻から成る漢詩文集で、巻8に、甥で弟子の智泉(ちせん)の夭折を惜しんで書いた法事に用いる願文が書かれている)」によると、彼は若い頃、好んで山中を歩き回り、「吉野山から南へ1日、そこから更に西へ2日、高野と云う地がある」と書き、空海が唐に渡る以前の無名時代、生駒山や大峯山、玉置山といった山々を巡って激しい修行を重ねましたが、大峯山は古くから修験道のメッカで、今も山岳修行が盛んに行われ、山頂(山上ケ岳)へ至る山道には、修験道の行場(ぎょうば)が沢山点在しています。 800年(延暦19年)富士山が噴火し、早良親王に崇道天皇の追尊があり、801年(延暦20年)坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された頃、空海は「青龍寺」、「戒長寺」で修行し、諸国を行脚の時、杖を突き立て、「弘法水」と云われる井戸(柾の井、弘法井戸、薬水、弘法の井戸、硯石)を掘ったが、大和国高市郡の久米寺の東塔の下から「大日経(正式名は大毘盧遮那成仏神変加持経、最も洗練された大乗仏教の立場から印度の諸宗教の一切を統一し包括しようと云う意図で書かれた密教経典)」を見出して読みあさり、いくつもの難解な疑問が残ったので、この上はどうしても唐へ渡らねばならないと、入唐求法の思いが急速に膨らみました。 803年(延暦22年)第16次遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)が還学僧(げんがくそう)最澄(さいちょう)らと共に出航したが、嵐に遭って引き返したので、804年(延暦23年)4月空海31歳は東大寺の「戒壇院」で受戒し、桓武天皇から入唐の勅を賜り、「大福寺」で航海安全の祈祷をして、5月12日留学僧(るがくそう)になり、遣唐使の橘逸勢(たちばなノはやなり)らと四つノ船(遣唐使船)の第一船に乗って、7月6日肥前国田浦(たノうら)から出航し、途中暴風に遭い、舵を取られ34日の漂流の後、8月10日福州の赤岸鎮(せきがんちん)の近くに漂着し、最澄らの乗った第二船も50日余り漂流して、明州の寧波(にんぽう)に漂着したが、第三船は孤島に漂着の後、命からがら日本へ戻り、第四船は消息不明です。 しかし、予定の蘇州から余りにも南に離れた福州に漂着した大使藤原葛野麻呂と空海らは、福州の観察使・閻済美(えんさいび)に怪しまれ、なかなか上陸の許可が得られなかったが、空海が大使に代って書いた嘆願書が功を通し、やっと一行は使節として認められ、11月福州を出発して、長安(ちょうあん、現在奈良市と姉妹都市の西安市)まで2000kmの道を昼夜敢行で辿り、新年の「朝賀の儀」に何とか間に合いましたが、1月23日皇帝徳宗(とくそう)が崩御し、28日に皇太子が即位して順宗(じゅんそう)皇帝になりました。 805年(延暦24年)2月10日大使藤原葛野麻呂らが長安を発して帰国し、空海は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)ゆかりの古刹「西明寺(ボタンの名所)」に落着き、学僧円照(えんしょう)と知り合い、醴泉寺(れいせんじ)に居た印度僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)からサンスクリット語(梵語)を学び、6月13日青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院で恵果(けいか)阿闍梨(あじゃり、密教の正統な後続者としての位)に会うと、「そなたが来るのを待っていた。私の生命は尽き様としている。早く伝法の潅頂壇(かんじょうだん)に入るように」云われ、早速真言密教の奥義を伝授されて「遍照金剛」の名を授かりましたが、そもそも、大日経、金剛頂経、蘇悉地経などを拠り所にして胎蔵と金剛の二部を立て、真言呪法の加持力で即身成仏を期するのを本旨とする真言宗は、印度で大日如来が金剛薩埵(こんごうさった)に伝法や灌頂を授け、金剛薩埵が真言密教の始祖初代龍猛(りゅうみょう)に授け、二代龍智(りゅうち)、三代金剛智(こんごうち)と伝授され、唐に入って四代不空(ふくう)が「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」を伝訳して大成し、五代善無毘(ぜんむい)、六代一行(いちぎょう)が「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を筆録して、七代恵果、そして八代が空海で、初代〜八代八祖大師の肖像画は、高野山の「根本大塔」や壺坂寺の本堂(八角円堂)に掲げられています。 なお、恵果は、空海に密教の全てを伝授して、各種の法具や曼荼羅を授け終わると間もなく、805年(永貞元年)12月15日60歳で遷化(せんげ、逝去)し、弟子1千人中で6人しかいない受法高弟から空海が選ばれて、「恵果和尚(けいかかしょう)の碑文」を書きました。 また、空海はその名筆を唐帝順宗に知られ、宮殿の壁に文字を書くように云われると、左右の手に筆を取り、左右の足にも筆を挟み、口にも筆を加え、5本の筆でもって王羲之(おうぎし)の5行の詩を同時に書き、更に1間に墨汁をそそぎかけると、たちまち巨大な「樹」の字が浮かび上ったので、皇帝順宗が舌を巻き、空海に「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与え、菩提樹の種で作った数(じゅず)珠を賜りましたが、その数珠は現在「東寺」に保管されています。 806年(延暦25年)3月17日桓武天皇が崩御し、第51代平城天皇が即位した年、新皇帝の即位を祝う使節として高階遠成(たかしなノとおなり、真人)らが長安にやって来たので、留学期間20年の短縮を請う書簡を渡して許され、10月空海と橘逸勢が留学期間を2年に短縮し、帰国船に便乗して帰国しましたが、帰国に際し、空海が明州の港から師より授けられた八祖相伝の三鈷杵(さんこしょ)を空高く投げると、はるか日本の高野山まで飛来し、落ちた所に現在、3本松葉の「三鈷の松」が植わっています。なお、帰りの航海中、恵果の命によって刻んでいた不動明王像を舳(へさき)に祀ると、不動明王が荒れ狂う波を切り開き、航路を鎮めましたが、その不動明王は、現在高野山南院の秘仏「波切不動明王像」です。 また、帰国後の10月23日空海が高階真人を通じて朝廷に提出した延々10mにも及ぶ「請来目録(しょうらいもくろく、琵琶湖の竹生島「宝厳寺」に所蔵)」によると、彼が唐から持ち帰ったものは、仏舎利80粒(現在東寺の五重塔と講堂の諸仏の頭部に納められ、天下豊穣のときに増え、国土衰退のときに減る)、経典216部461巻を始め、仏像、曼荼羅などがあり、国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼陀羅図」2幅は「子嶋寺」に残っています。なお、中国で普及し始めたばかりのうどんの製法を修得して帰り、甥で十大弟子の一人智泉(ちせん)に教え、それが今の讃岐うどんの始りで、また、空海が唐から持ち帰ったお茶は高弟堅恵(けんね)に与えられ、「仏隆寺」の辺りで大和茶の起源になりました。 808年(大同3年)5月21日朝廷が旱魃に際して、丹生川上神社に黒駒を奉納すると、23日雨が降ったので、群臣万歳を称して終日宴会を開きました。 810年(大同5年)空海は奈良市高樋(たかひ)町の虚空蔵山(標高200m、別名高樋山)に明星が落ちるのを見て、そこに明星天子の本地仏である虚空蔵菩薩を安置して開基したのが高野山三真言宗「虚空蔵寺(弘仁寺)」で、虚空蔵山・如意山・高井山などと号し、その奥之院「阿伽水ノ井戸」に空海が三鈷杵(さんごうしょ)で彫った不動尊石仏を祀っています。 810年(弘仁元年)東大寺では僧が蜂に刺されて難儀していたが、空海が東大寺第14代別当(長官)に就任すると、蜂がいなくなり、今でも東大寺では月2回、空海が唐から持ち帰った密教経典を読み上げます。なお、この頃37歳の空海が自らの「等身座像」を安置し、最初の真言道場としたのが元高野(もとこうや)「大蔵寺」で、また、同年空海が重文の「木造延命普賢菩薩坐像」を刻って、安置したのが、通常「普賢(ふげん)さん」と呼ばれる「常覚寺」で、空海の開基です。 811年(弘仁2年)空海が唐から持ち帰った劉希夷集(りゅうきいしゅう)や劉廷芝(りゅうていし)の書を嵯峨天皇に献上し、東宮(後の第53代淳和天皇)に筆を献上して、長岡京「乙訓寺(現在ボタンの名所)」の別当を命じられ、翌年(弘仁3年)「乙訓寺」に生った蜜柑を天皇に献上し、最澄の訪問を受け、高尾山寺で、11月15日と12月14日最澄に金剛界と胎蔵界の結縁潅頂(けちえんかんじょう)を授けたが、最澄が望んでいだ伝法(でんぽう)潅頂は授けませんでした。 また、同年藤原北家を冬嗣(ふゆつぐ)が継いで、「どうすれば家運が盛り上がるだろうか」と空海に尋ねると、空海が「藤原氏の菩提寺・興福寺に八角形の堂を建立しなさい」と云い、不空院の八角円堂(1854年安政元年の大地震で倒壊、現在は本堂の下に礎石のみ)を雛型として、813年(弘仁4年)創建されたのが現在の南円堂で、堂の前に建つ大灯籠の火蓋に書かれた文章は空海が選び、文字は橘逸勢が書き、その後、藤原氏で北家が最も繁栄したのに、逸勢は藤原北家の良房(よしふさ)の諜略によって、842年(承和9年)「承和(じょうわ)の変」で捕らえられ、伊豆へ流される途中、非業の死を遂げました。なお、逸勢の書いた大灯篭の火蓋の文字は、現在興福寺の国宝館で見ることが出来ます。 812年(弘仁3年)11月15日と12月14日空海は最澄に高雄山寺で潅頂(密教僧侶の認証式)を行い、また、空海が高見山で修行をしていると、不動明王が白馬に乗って麓の「清水寺」に降り立ち、境内の滝(投石の滝)に天の玉石を投げたので、「清水寺」は後に「白馬寺」と呼ばれました。 813年(弘仁4年)3月6日最澄の弟子・泰範(たいはん)が空海から潅頂を受け、そのまま高尾山寺にとどまり、最澄が比叡山へ帰るように促したが帰らず、泰範は後に空海十大弟子の一人になり、7月空海に対し、朝廷の変化を鎮め、衆生の苦しみを救うために宮中を始め五畿七道の寺院に国家護持の「仁王般若経」を講読するように勅命があったので、その願文(がんもん、趣意書)を趣筆し、この頃空海は「大峯本宮天川大弁財天神社」に留まって、大峯山で修行中、天川弁財天を「琵琶山妙音院」と号し、一大聖地にした頃、11月23日最澄から書簡があり、真言第6祖不空訳の「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の借覧を云って来たが、9月1日に最澄が著した「依憑(えひょう)天台集」で、不空を天台宗の弟子呼ばわりにしていたので、請借を断り、考えを改めれば、お貸し致しますと云ってやりました。 815年(弘仁6年)空海は五條市犬飼町で狩場明神と邂逅(かいごう)し、高野山への道案内と道中安全守護のため、明神の使者である白黒2頭の犬を賜りましたが、現在そこに真言宗犬飼山「転法輪寺」が建ち、そこから少し西へ行った奈良と和歌山の県境「待乳峠」で、腫瘍で乳が出なかった女人に、空海が待乳膏を作って与えました。 なお、同年(弘仁6年)空海は、役小角が701年頃(大宝元年頃)開いた河内長野の「雲心寺」で、七星如意輪観音を刻み本尊とし、寺号を「観心寺」と改称しましたが、当寺は観梅で知られ、南北朝時代後醍醐天皇の勅で楠木正成が金堂外陣を造営し、正成が湊川で戦死の時、敵の大将足利尊氏は正成の妻子が身を寄せていた「観心寺」に正成の首を届け、後に後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇が、一時「観心寺」に行宮(あんぐう)し、崩御の後に同寺へ生母阿野廉子(あのれいし)と共に葬られています。 なお、この頃、奈良市雑司(ぞうし)集落(旧東大寺境内)に「空海寺」を開山し、像高4尺8寸の本尊「地蔵菩薩石像」、像高4尺5寸の脇侍「不動明王石像」、および、像高2尺5寸の「聖徳太子石像」を彫って、堂内の石窟に秘仏として安置すると、世俗で「穴地蔵」、「文(ふみ)地蔵」と呼ばれました。 821年(弘仁12年)4月空海48歳は、一人の沙弥(しゃみ、20歳未満の若い僧)と、四人の童子を連れ、故郷の讃岐に赴き、3000人の労務者を使って、3年前に決壊していた満濃池(まんのういけ、周囲21km、貯水量1540万トン、我が国最大の農業用溜め池、灌漑面積4600ヘクタール)をわずか3ヶ月で修築し、その時彼が用いた「余水吐け」の仕組みは、現代のダムにも採用されています。 |
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九条通りに面した東寺の南大門
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右手に三鈷杵、左手に数珠を
持つ弘法大師 (東寺所蔵) |
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| なお、空海は唐へ共に入唐した橘逸勢、嵯峨天皇と共に「三筆(さんぴつ)」と云われ、筆を択(えら)ばず上手に字を書いたので、ある時、嵯峨天皇の勅命で、大内裏(だいだいり)十二門の内、南面三門と朝堂院正面の「応天門」の額を書くように云われ、書き終えて額を門に掲げると、「応」の字の点を書き忘れていました。そこで彼は、筆を投げて点を打ったが、これを「弘法にも筆の誤り」と云います。
また、同年第53代淳和(じゅんな)天皇が即位して翌年、824年(天長元年)空海51歳は天皇の勅願により、大和神社の神宮寺として、山の辺の釜口(かまノくち)に「長岳寺」を建立し、なお、空海が唐から持参した如意宝珠を埋めた所が如意山(にょいさん)で、室生寺を再興して、真言修法の道場とし、「五重塔」を一夜で建立され、室生寺の末寺も建立して、慈尊院「弥勒寺(大野寺)」と称し、また、當麻寺の「中之坊」に参籠して、授法を授け、現在2宗ある同寺の1院を真言宗の道場にし、更に、不動明王を安置して「不動寺」を開基しました。 828年(天長5年)12月15日中納言藤原三守(みもり)の私邸を譲り受け、庶民の学校である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開校し、授業料無料で、貧富の差なく庶民にも、儒教、道教、仏教の総合教育を行い、空海作で我が国初の字典「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」を使い、また、この頃、涅槃(ねはん)経の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」を表した七五調四句四七文字からなる「以呂波歌(色は匂へど、散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山けふ越えて、浅き夢見し酔ひもせず)」を作りました。 830年(天長7年)淳和(じゅんな)天皇が勅を下し、仏教各宗の宗義綱要を撰進するように命じたので、空海57歳は、既に書き上げていた「秘密曼荼羅十住(菩薩が修行の過程でふむ52の階段中、第11〜第20までの階位で、発心住、治地住、修行住、生貴住、方便住、正心住、不退住、童真住、法王子住、灌頂住を云う)心論」十巻と、略述書の「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を資料編として上進しましたが、これにより平安仏教が古い南都の諸宗に対して理論的に優位を確認し、以後我が国の思想・宗教・文化が密教を基調として展開するようになりました。 831年(天長8年)空海は悪瘡(あくそう、悪質なできもの)を患い、その経過が思わしくないので、6月14日「大僧都を辞する表」を奉じ、静養を願い出たが、天皇はねんごろな勅答を与えて許さず、でも病はやがて治りました。 832年(天長9年)8月22日空海59歳の時、高野山で衆生救済の願いを込めて願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」を書き、万燈会(まんどうえ)を始めましたが、今でも毎年旧暦3月20日の夕方、この世の全ての闇を照らそうと云う、1万もの灯明が「御影堂」の周りに灯され、全国から空海を慕って人々が高野山の伽藍に集まります。なお、仏菩薩を供養して懺悔(ざんげ)、滅罪のための「万燈会」は、その後年中行事になり、薬師寺で3月、東大寺で12月行われるが、最初に1万の灯明を灯したのは、744年(天平16年)金鐘寺(きんしょうじ、東大寺の前身)の法会でした。 なお、同年(天長9年)11月から空海は五穀を断って坐禅観法(ざぜんかんぽう)を好んだと、弟子の実慧が記していますが、空海は弟子達に「私はこの世に生きている期間がもう幾ばくもない、お前達と別れるのは来年3月21日寅の刻だ」と云われ、また、11月12日空海が嵯峨上皇から「弘福寺(ぐぶくじ、川原寺)」を賜ったと、「水鏡」にあります。 833年(天長10年)淳和天皇が譲位し、皇太子であった嵯峨上皇の第2皇子が第54代仁明(にんみょう)天皇に即位しました。 835年(承和2年)3月15日空海は弟子達に対し、最後の遺誡(ゆうかい)を終えると、香湯で身を浄(きよ)め、浄衣(じょうえ)を着て浄室に入り、この時以来床座(しょうざ)に上って結跏趺坐(けっかふざ)し、大日如来の定印(じょういん)を結び、弥勒菩薩の三昧に入られ、そのままの姿で7日目を迎え、3月21日午前4時、予告通り、寅の刻に深く目を閉じ、唇を堅く結んで、金剛定(こんごうじょう、三密金剛の大定)に入られました。 時に空海62歳、姿は生身(しょうしん)のままで、49日間法楽を捧げましたが、顔色は少しも衰えず、髪も長く伸びたので、50日目に髭を剃って、なおまだ温かい肌を持つ定身を輿に乗せ、弟子達が代わる代わる担ぎ、奧之院の「御廟」まで運び、尊体を石室に納め奉り、高野山真言宗総本山「金剛峯寺」が官寺に準ずる定額寺(じょうがくじ)になり、真言宗年分度者3名の設置を勅許され、空海に大僧正、法印和尚位が贈られました。 853年(仁寿3年)円珍(えんちん、空海の甥、天台宗の高僧で後の智証大師)が入唐して、開元寺に滞在した時、寺主(てらし)の恵灌(えかん)から、「五筆和尚はお元気ですか」と尋ねられ、もう亡くなりましたと答えると、恵灌は酷く胸を打って悲慕し、あのように才能豊かな方は未だ過っておられませんと申しました。 855年(斉衡2年)円珍が唐の竜興寺(りゅうこうじ)浄土院にいた時、過って青竜寺で恵果に仕えていた義真(ぎしん)や義舟(ぎしゅう)に会うと、彼らは口々に50年前、わずか1年そこそこ唐に滞在した空海を懐かしみ、彼が如何に聡明で、書の達人であったかと述べ、深く崇敬(すうけい)し讃えましたが、円珍も入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、慧運、宗叡ら)の一人です。 866年(貞観8年)我が国で初めて天台宗の最澄に伝教(でんぎょう)大師、円仁(えんにん)に慈覚(じかく)大師の号が贈られましたが、観賢(かんげん、空海の曾孫弟子)の要請によって、入定(にゅうじょう)から86年経った921年(延喜21年)空海は第60代醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう、おくりな)を下賜(かし)され、歴代27大師の中、今日単に大師と云えば「弘法大師」を指し、また、大師とは梵語(ぼんご)のシャーストリの漢訳で、偉大な師、優れた指導者という意で、高僧の尊称ですが、ただ「弘法」と云えば、空海が男色の元祖なので、衆道のことです。 また、高野山「奥之院」の手前に、1023年(治安3年)藤原道長が建立した「灯篭堂」があり、堂内で「消えずの火」2灯が燃えていて、1灯は1088年(寛治2年)2月白河上皇が灯明30万灯を献じた内の1つ「白河灯」で、もう1灯は貧者お昭(あき)が自分の髪を売って献じた「貧女の一灯」、また、空海が灯した安芸の宮島「弥山の霊火堂」の法灯(新日鉄の高炉の種火と広島平和公園の慰霊碑の灯に移す)と共に千年近く燃え続けています。 最後に、長文の御精読に感謝して合掌。 |