俳聖「松尾芭蕉」のこと

 俳聖・松尾芭蕉は、1644年(正保元年)伊賀上野(三重県上野市)で、土着の郷士・松尾儀左衛門の次男として生まれ、本名を松尾忠右衛門宗房(むねふさ)と云い兄妹は、兄と姉、3人の妹の6人、松尾家は代々伊賀阿拝郡(あはいぐん)拓殖(つげ)郷に住んでいた平家の末流の一族で、父が若い頃に拓殖を離れて上野の赤坂町へ移住して来たようです。

 宗房(芭蕉)は十代の後半に、藤堂藩主の一門、五千石の侍大将藤堂新七郎(しんしちろう)藤原朝臣良精(よしきよ)の料理番小姓(台所用人)として仕え、良精の嫡男(息子)で、主計良忠(よしただ)と親しく、良忠は号を、蝉吟(せんぎん)と云い、京都の北村季吟(きぎん、貞門俳諧)に俳諧を学んでいたが、宗房(芭蕉)も良忠に従って、主従共に俳諧の道に精進し、

 1663年(寛文3年)大和郡山では、片桐貞昌(片桐且元の甥)が小泉に「慈光院」を造り、翌年(寛文4年)南都代官所が奈良に設置され、そして、翌々年(寛文5年)片桐貞昌が将軍家綱の点茶師匠になりました。

 1665年(寛文5年)蝉吟が主催して、季吟の師であり近世俳諧の祖と云われた貞徳(ていとく)の十三回忌追善百韻が催されましたが、宗房(芭蕉)も一介の奉公人ながら、蝉吟に寵愛され、破格の待遇で、百韻の連衆に加わりました。

 1666年(寛文6年)4月蝉吟公(良忠)が25才で亡くなると、悲嘆にくれた宗房(芭蕉)は後に主家を辞し、北村季吟の門に入って自ら俳諧を学び、初期の俳号を「宗房(そうぼう)」と号し、宗房(芭蕉)23,4歳の春、山の辺の「内山永久寺」に参詣して、下記の句を詠み、現在その廃寺跡に句碑が建っています。なお、この年、「和州南都之図」と「和州寺社記」が奈良で出来上がりました。

    うち山や とざましらずの花ざかり

 1670年(寛文10年)大和郡山で大火があり、200余戸を焼失し、翌年(寛文11年)郡山藩主本多政勝が没して、九六騒動が起こりました。

 1672年(寛文12年)1月俳諧で身を立てることを決意した芭蕉29歳は、菅原神社(上野天満宮)へ30番句合わせた処女作「貝おほひ」1巻を社前に奉納し、自らの文運を祈願してから江戸へ下り、

1674年(延宝2年)芭蕉は、江戸で北村季吟を訪ね、本格的に俳諧師の道を歩み始め、33才の時に俳号を「桃青(とうせい)」と号し、37才の時、「泊船堂(はくせんどう)」とも号して、38才の時、門人の李下(りか)から贈られた植物の名に由来した庵の名「芭蕉」を号にしたけど、全部で13の号が知られています。

 1676年(延宝4年)6月芭蕉33歳は、伊賀上野へ帰り、また、下記の句碑は上野天満宮に建っています。

    初(はつ)さくら 折(おり)しもけふはよき日(ひ)なり

 1677年(延宝5年)〜1680年(延宝8年)までの足掛け4年間、芭蕉は武(ぶ)の小石川の水道工事に従事し、ほぼ年に一度の割合で、樋(とい)のない開渠(かいきょ)部分の底をさらう工事を、数百人の人足を使って請け負いました。

 1682年(天和2年)12月江戸馬込の大円寺から出火した大火によって、深川にあった芭蕉の草庵も焼失し、焼け出された芭蕉は、その後漂泊生活を送り、この年奈良では、「大和名所記(和州旧蹟幽考)」が刊行されています。

 1684年(貞享元年)8月芭蕉41歳は、江戸を立って「甲子吟行(かしぎんこう)」で知られる旅に出て、9月故郷の伊賀上野を訪ね、母の墓参りをして、その足で奈良の「お水取り」を見て,京都、滋賀、美濃大垣、名古屋と巡り歩き、江戸へ戻ったのは翌年(貞享2年)の4月でしたが、この旅の紀行文が「野ざらし紀行」で、門人苗村千里の招きで、「竹内の興善庵」に10日間滞在し、千里の案内で「當麻寺」にも参詣して諸仏を拝み、その合間に芭蕉が詠んだ句が次で、現在「竹内街道」沿いに「綿弓(わたゆみ)塚」があり、また、吉野の「西行庵」にも行き、この年、本多忠平が大和郡山城主になりました。

    僧朝顔 幾(いく)死かへる法の松
    綿弓や 琵琶に慰(なぐさ)む竹の奥
    露とくとく 試みに浮世すすがばや

 1686年(貞享3年)芭蕉43歳の時、かの有名な蛙の句を詠み、その句碑は現在、蓑虫庵の「古池塚」と、上野市永田の「ふるさと芭蕉の森」に建っていますが、上野市平野の「くれは水辺公園」と共に「ふるさと芭蕉の森」には、他にも沢山の芭蕉の句碑(全部で8基)が建っています。

    古池や 蛙飛び込む水の音
    此秋(このあき)は 何で年よる雲の鳥
    行秋や 手をひろげたる栗(くり)のいが
    雲とへだつ 友かや雁の生き別れ
    旅がらす 古巣は梅になりにけり
    名月に 麓(ふもと)の霧や田のくもり

 1687年(貞享4年)8月芭蕉44歳は、鹿島、潮来に遊び、この時の紀行文が「鹿島詣(かしまもうで)」で、茨城から戻ると、同年10月芭蕉は再び東海道の旅に出て、兵庫の須磨から明石まで足を伸ばし、この時の紀行文が「笈(おい)の小文(こぶみ)」で、「葛城一言主神社」にも参拝し、その帰り道、12月上野市赤坂町の生家で、自分の臍(へそ)の緒を見て、4年前に亡くなった母のことが懐かしく思い出され、そして、美濃から信州に入り、江戸へ戻るまでの紀行文が「更科(さらしな)紀行」です。

    旅人と 我名よばれん初しぐれ
    猶(なお)みたし 花に明行く神の顔
    旧里(ふるさと)や 臍の緒に泣く年の暮

 1688年(元禄元年)2月芭蕉が伊賀上野へ戻っていた時、3月門弟の服部土芳(どぼう)が、伊賀上野に「些中(さちゅう)庵」を造りましたが、その数日後に芭蕉が訪れ、面壁の像を描き、「蓑虫の音を聞きにこよ草の庵」と讃してから蓑虫が些中に同音で相通じるので、「蓑虫庵」と呼ぶ様になり、芭蕉五庵(無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵、蓑虫庵)の1つですが、現存する庵はこれだけで、庭の「なづな塚」に芭蕉43才の時の句(下記)碑が建っています。そして、江戸へ戻ってから、わずか半年後、

    よく見れば なづな花咲く垣(かき)ねかな        

 1689年(元禄2年)3月芭蕉は門人の河合曾良(かわいそら)と共に奥州へ旅立ち、「月日は百代の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也・・・」で始る、東北(奥羽加越)を巡った最後の紀行文(5つ目の俳句集)「奥の細道」は、白河の関を越え、郡山、白石を通って仙台に入り、日本三景の1つ「松島」を見物して、下記を詠み、

    卯の花を かざしに関の晴着かな  曾良
    松島や あぁ松島や松島や

更に北上し、平泉に到着して、そこで平安末期、1185年(文治元年)11月雪の吉野山を抜け出し、1189年(文治5年)平泉で戦死した源九郎判官義経を偲んで、下記の句を詠んでいます。

    夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡   平泉にて
    五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂
    静かさや 岩にしみいる蝉の声      立石寺にて
    蚤虱馬(のみしらみうま)の尿(しと)する枕もと
    涼しさを わが宿にしてねまるなり    尿前の関にて
    這い出でよ 飼屋(かいや)が下の蟇(ひき)の声
    眉掃きを 俤にして 紅粉の花      尾花沢にて

 更に芭蕉は、そのまま奥羽山脈を越えて、出羽国を抜け、越後から北陸道に入り、金沢、越前と進んで、8月20日頃美濃大垣に至り、ここで「奥の細道」を完結しましたが、

    そのままよ 月もたのまし 伊吹山  句碑、山上に在り

そのまま近畿を漂泊し、9月伊賀上野の生家へも立ち寄って、1690年(元禄3年)正月と9月、1691年(元禄4年)正月と春にも生家へ立ち戻り、10月ようやく江戸へ帰宅し、江戸を出発してから約2年半の歳月が流れていたが、1692年(元禄5年)東大寺では戦火で焼けてから125年ぶりに「大仏さん」の開眼供養が行われ、芭蕉が「野ざらし紀行」で奈良へ来て、「お水取り」を見た時の句碑が、「二月堂」下の「龍王之瀧」の前に建っていて、また、「笈の小文」で鑑真和上を偲んで詠んだ句碑は「唐招提寺」の境内に建っています。

    水取りや 籠(こもり)の僧の沓(くつ)の音
    若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや


 1694年(元禄7年)5月芭蕉は、清書の出来がった「奥の細道」を笈に入れると、内縁関係にあった寿貞(じゅてい)の子、次郎兵衛一人を伴って再度東海道の旅に出て、道中で次の句を詠み、

    目にかゝる 時やことさら 五月富士

 大津から京都に入り、5月と7月10日兄の招きで、いったん伊賀上野へ帰郷し、その時の盆会で詠んだ句碑が「愛染院」の境内にあり、なお、芭蕉が初に生家を出てから、度々伊賀上野へ戻った回数は17回で、この度が最後の帰宅でした。

    家はみな 杖(つえ)に白髪の墓参り
    数(かず)ならぬ 身(み)となおもひそ玉祭(たままつ)り

 そして、同年9月9日芭蕉は、九州への旅の途中、大阪にいる門人同士が門戸を張って確執を深めていたので、その仲裁の為、奈良から暗峠を越えて大阪へ至り、

    菊の香に くらがり登る 節句かな

その翌日に発病して、床に着き、各地から門人が駆けつけ、下痢がひどくなって、日に日に痩せ衰え、10月8日の夜、「病中吟」が、

    旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る

10月10日容態が急変し、遺書を認(したた)めると、翌朝から食を断ち、香を炊いて眠り、生涯で約980の句を残して、12日午後4時頃、大勢の門人に看取られながら大阪南御堂の花屋で亡くなり、享年51才。遺体は遺言により、木曾義仲(きそよしなか)の墓がある大津の義仲寺(ぎちゅうじ)へ葬られ、伊賀上野には、「愛染院」に芭蕉の遺髪を祀った「故郷塚」があります。

 なお、伊賀上野市内に建てられている芭蕉の句碑は、JR関西線「伊賀上野駅」前、上野市役所南、上野市立図書館、だんじり会館、上野の公園東入口、伊賀上野城敢国神社、下友生橋の欄干、西蓮寺などの所と、上記に既に示したものの他に、まだ沢山の句碑が、芭蕉の真蹟で書かれた文学碑と共に市内いたる所に建っています。また、伊賀上野市内のあっちこっち8箇所に俳句投票箱が置かれ、応募された俳句は、季節毎に選句されて、優秀作品に記念品をプレゼントされます。

    月ぞしる べこなたへ入せ旅の宿
    升(ます)かふて 分別かわる月見かな
    草いろいろ おのおの花の手柄かな
    きてもみよ 甚べが羽織花ごろも
    やまざとは まんざい遅し梅花
    さまざまの 事おもひ出す桜哉(さくらかな)
    手ばなかむ おとさへ梅のにおひかな
    五月雨も 瀬ぶみ尋ねぬ見馴(みなれ)川
    やがて死ぬ けしきは見えずせみの声



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