東大寺二月堂修二会(お水取り) その1
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1250年以上絶える事なく続く、東大寺二月堂の修二会(しゅにえ、お水取り)は、「二月を美しいものにする」と言う意味があり、正月を美しいものにすると言う「正修会」の法会(ほうえ)も別に有って、昔から三重県島ヶ原村の正月堂や京都府笠置町の正月堂で行われ、平安時代に空海も参加した二月堂の修二会は、東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正の高弟で、重文の二月堂を建立した実忠(じっちゅう)和尚(かしょう)が、751年(天平勝宝3年)10月笠置寺(京都府相楽郡笠置町)で修行中に龍穴を見つけ、その洞窟に入り、北へ1里ばかり行くと、光輝く49院の兜率天(とそつてん)の世界が在り、それらの内院を巡礼し、常念観音院にたどり着くと、そこで多くの聖衆(しょうしゅう)が仏前に懺悔(ざんげ)をする悔過(けか)の行法(ぎょうぼう)を修していました。 更に行法が進むと、中央に生身(しょうじん)の観世音菩薩が出現されたので、実忠は驚き、聖衆の1人に是非ともこの行法を下界に持ち帰りたいと望みましたが、兜率天の1昼夜は人間世界の400年に相当し、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かり、それに生身の観音も必要だから諦めた方がいい、と言われましたが、そこは流石の実忠、千べんの行法と言えども走ってやれば数を満たし、また、誠をつくしてやるなら観音も出現されるでしょうと食い下がって、大仏開眼の2ケ月前、752年(天平勝宝4年)2月1日(金)二月堂で修二の悔過(けか)を修したのが、東大寺二月堂「修二会」の始まりです。 東大寺二月堂修二会、行事概要(*は閏年の時、翌日) 12月16日、練行衆(れんぎょうしゅう)交名発表 2月12日、新入(しんにゃう)習礼 2月18日、油量り 別火(べっか)、2月20日〜28日*、 試別火(ころべっか)、2月20日〜25日* 2月20日、練行衆試別火入り 2月21日、内陣掃除、御輿(みこし)洗い、社参、 試みの湯、注連撒(しめま)き、 結界の注連縄張(しめなわは)り 2月23日、花ごしらえ 2月24日、上(じょう)七日壇供搗(だんぐつ)き 2月25日、社参(八幡殿、大仏殿など)、暇乞い 総別火(そうべっか)、2月26日*〜28日* 貝吹き合わせ、声明稽古、衣の祝儀、 香薫、大懺悔など 2月26日*、総別火入り、糊炊き 2月27日*、粟(あわ)の飯(い)、椿の花付け 2月28日*、参籠宿所入り、大中臣祓 本行(ほんぎょう)、3月1日〜14日、食作法、 六時の行法(日中、日没、初夜、半日、後夜、晨朝) 大導師作法(神名帳)、咒師作法 上(じょう)七日、3月1日〜7日、本尊「大観音」 3月1日、授戒(じゅかい)、一徳火(いっとくび)、 開白(かいはく)法要 3月1日〜4日、8日、籠松明作り 3月5日、大導師作法(過去帳) 3月5日〜7日、走りの行法 3月7日、数取懺悔、小観音(こがんのん)出御、小観音後入 下(げ)七日、3月8日〜14日、本尊「小観音」 3月8日、授戒(じゅかい)、法華懺法 3月12日〜14日、走りの行法、達陀(だったん) 3月12日、大導師作法(過去帳)、水取り 3月15日、お集会(しゅうえ)、開山堂参拝、 達陀帽戴(だったんぼういただ)き、解散 修二会の僧を練行衆と云い、11人で構成され、その人選は、前年の12月16日良弁僧正開山忌(当日、二月堂下の開山堂で国宝の良弁坐像と、実忠坐像を開扉)の時、東大寺別当から言い渡され、練行衆の内訳は、一同に修二会中守るべき戒を授ける和上(わじょう)。修二会の趣旨や祈願文を唱え、行法全般のリーダーとなる大導師(だいどうし)。印を結び陀羅尼(だらに)の咒(しゅ)を唱え、道場を結界する咒師(しゅし)。堂内の荘厳係兼行法の進行係であり、修二会内外の雑務を総括する堂司(どうつかさ)の上位4人を四職(ししき)と呼び。残りの人が平衆(ひらしゅう)、その首長挌が総衆之一(そうしゅうのいち、または北衆之一)。南座の長の南衆之一(みなみしゅうのいち)。北座の次席の北衆之二、南座の次席の南衆之二。書記役の中灯(ちゅうどう)之一。末座の処(しょ)世界を補佐する権処世界(ごんしょせかい)。堂内掃除役の処世界(しょせかい)の7人で、修二会において、自らの罪障は無論のこと、他の全ての人々の罪過も代わって懺悔し、その上で観音様に人々の幸福を願い。また、この他に練行衆を補佐する堂童子(どうどうじ)、小綱(しょうこう)兼木守(こもり)、駈士(くし)の三役。加供奉行(かくぶぎょう)。仲間(ちゅうげん)。童子(聖域に入ることを許された神に近い子の資格を持った大人で、練行衆各自に一人ずつ付き、松明をかつぐ)。院子(いんじ)。大炊(おおい)らで、修二会の法会に直接携わる人々は、期間中総勢30数名にも達し、練行衆と三役は、2月26日の総別火〜3月15日の満行まで外出が禁じられます。 なお、修二会は大まかに分けて、2月20日〜28日までの「別火」と呼ぶ「前行」と、3月1日〜14日までの「本行」に別れ、「別火」とは、同じ火で煮炊きしたものを食べたり同じ火にあたったりすると、聖なるものも俗なるものも伝播するので火を分けることを意味し、手向山八幡宮の宮司が練行衆の別火坊入りや参籠宿所入りに先立って台所・仏餉屋(ぶっしょうノや)、浴室・湯屋のかまどの清祓を行い、火のまわりを清め、若狭井(わかさい)や良弁杉(ろうべんすぎ)に掛ける注連縄に挿す幣を作られます。 そして、2月20日夕刻から練行衆が普段の生活で用いる火を断ち切り、堂童子が法会の始まりに当たり新しく火切金で燧石(ひうちいし)を打って起こした火で灯した聖観音の燈明から頂いた浄火だけを用いて、精進潔斎し、心身を清める為、東大寺の戒壇院に臨時に設けられた「別火坊」へ三々五々集まり、入浴の後、運び入れた持ち物一切を佐保川の上流の蛭子(えびす)川から汲んだ水で祓い浄め、これには隈笹(くまざさ)の一枝を用います。それから小さな厨子に入った自身の守り本尊を前に置き、体内から三毒{我々人間の本性として、常に持っている貧欲(むさぼり)、嗔恚(いかり)、愚痴(ぐち)による三毒}を吹き払う為、祝詞(のりと)様の御祓文「中臣祓詞(なかとみノはらえことば)」を称えながら小さな御幣で祓い祈念して、これで「別火入り」となるが、新入の人は5日前に入られます。 また、「別火」前半、20日〜25日(閏年は翌日)までを「試別火」と云い、21日「社参」の「注連撒き」で、別火坊で作った注連縄を束ねて輪にした「輪注連」を遠敷社・飯道社に供えて堂童子がお祓いした後、神社の石段の上から撒き、下で待つ童子が争うようにこれを受取り、練行衆の自坊を始め、参籠する人々の門口に輪注連を掛け、同じく裏参道の中性院前や法華堂前の石灯籠など、二月堂を中心に決まった場所に注連縄を掛け、二月堂に結界を張り、清浄な場が守られるが、これらは一般参詣者も見学することが出来、先に堂童子が撒かれた注連は修二会が終った後、参籠した人達の自宅に掛けられます。 そして、別火坊では、修二会だけで着る紙衣(かみこ)の和紙を絞ったり、二月堂の須弥壇(しゅみだん、仏様を安置している台、仏教の世界観によると、頂上に帝釈天、山腹に四天王が住んで、世界の中心に聳え、高さ1億2千480万kmの須弥山を模して造られた台)を荘厳に、かつ華やかに飾って邪気を払う「造花の椿(この時期本物が無いので、京都伏見の紅花で染めた和紙を使用)」で作らるが、これは二月堂の下に建つ「開山堂」の境内に咲く奈良三銘椿(さんめいちん)の1つ「糊零し(のりこぼし、良弁椿)」を模した物で、練行衆によって2月23日「花ごしらえ」で作られ、赤と白染めの仙花紙を5枚花弁(はなびら)に、黄染めの傘紙を芯にして、5cm程に切られたタロ(タラの木、俗に鳥とまらず)に貼り付けて400個作られ、24日「上七日壇供搗き」で、童子が観音の為に須弥壇の回りに供えて堆(うずたか)く積まれる丸い大きな平餅を1日がかりで1000個ほど搗上げます。 |
紙衣(かみこ)
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造花の椿
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なお、「別火」後半、26日〜28日(閏年は共に翌日)までを「総別火(そうべっか)」と云い、この頃になると、練行衆全員大広間に集まって起居寝食を共にするが、茶湯を制限され{娑婆の火で沸かした茶湯は用いず、「本茶」と呼ばれる京都「栂尾茶(とがのおちゃ)」だけ飲むこと可}、私語を許されず、厳冬でも火の気は廊下の火鉢の炭火だけで、この火は「総別火」に入って直ぐに堂童子が火打ち石で起こします。
2月27日「椿の花付け」で、造花を大小20本椿の枝に付けるが、もし花を取り落とすと、それは「塵(ちり)」として使用せず。この様に修二会では造花1つとっても、何かと難しい約束事があり、また、二月堂でのみ履く差懸(さしかけ、音が出る様に松で作る歯の無い下駄)を整え、27日「粟飯(あわノい)」で粟粒を差懸の2箇所に焼き付けて滑らない様にします。 また、別火の期間中最も大切な事は、声明(しょうみょう、節をつけたお経)の稽古で、練行衆は毎晩読誦し、最後の日に暗記し、声が腹の底から出るように励みます。そして、「別火」最終日2月末日「別火」から「本行」へ移行する為、「香薫(こうくん)」の行事で練行衆は持物を全て香で清めて、午後3時過ぎ、戒壇院から二月堂下の参籠宿所(さんろうしゅくしょ)へ移動し、夕刻暗くなってから食堂(じきどう)の前で、小綱が松明を掲げる中、練行衆が咒師から大中臣祓(おおなかとみノはらい)を受けるが、ちょっと神道的な雰囲気に包まれる場面で、咒師が神様に遠慮をして袈裟(けさ)を少し外し、祓詞(はらえことば)を唱え、練行衆を祓い清め、俗に「天狗寄せ」と云われ、その直後、堂童子が童子を伴って登廊の入口に注連縄を張り渡し、結界を作って、行法を妨げる鬼の進入を防ぎます。 そして、3月1日午前0時「一徳火」で、二月堂の静寂な暗闇の中、堂童子が石を擦って火花を飛ばして、「本行」が開始され、極わずかな仮眠をとった練行衆が深夜に起床し、参籠宿所横の食堂(じきどう)で和上から「授戒(じゅかい)」を受け、本行中練行衆は戒めを守るかどうか、九箇条の戒めを問われ、その後、直ちに童子の持つ松明で足元を照らされて練行衆が二月堂へ登り、堂内を荘厳にして、いよいよ2週間に及ぶ「本行」の最初の行「日中(にっちゅう)」が勤められ、これを「開白(かいはく)」と云います。 本行は、二七日(にしちにち)六時の行法と云われ、一日六回の法要を二週間続けるが、前半3月1日〜7日までの「上七日(じょうしちにち)」と、後半8日〜14日までの「下七日(げしちにち)」に分けられ、更に1日が13時頃の日中(にっちゅう)、13時半頃の日没(にちもつ)、19時頃の初夜(しょや)、22時頃の半夜(はんや)、23時頃の後夜(ごや)。24時頃の晨朝(じんじょう)の「六時の行法」に分け、初夜と後夜は大時(だいじ)と呼ばれ、内容がより複雑なものになっているが、いずれにしろ毎日夜、散華行道(さんげぎょうどう)や称名悔過(しょうみょうけか)、五体投地(ごたいとうち)等の激しい所作を伴う極めて動的な行法(ぎょうぼう)で、特に「六時の行法」のそれぞれに唱誦される声明は時によって長短、緩急が有り、実に変化に富むばかりでなく、鈴や法螺貝等の音も加わり、一種の宗教音楽です。 また、「六時の行法」での経文は、1.三礼文(さんらいもん)、 2.供養文(くようもん)、 3.如来唄(にょらいばい)、 4.散華(さんか)、 5.呪願(しゅがん)、 6.称名悔過(しょうみょうざんげ)、 7.宝号(ほうごう)、 8.観音要文(かんのんようもん)、 9.五仏御名(ごぶつごみょう)、 10.大懺悔(おいさんげ)、 11.小懺悔(しょうさんげ)、 12.破偈(はげ)、 13.後行道(ごぎょうどう)、 14.廻向文(えこうもん)等から成り、 なお、これらの経は、さまざまな経から部分的に引用して編纂され、その内容は法会としての十一面悔過法が見事に構成され、1の三礼文は、仏・法・僧への帰依を大乗思想の立場から表明された「華厳経」浄行品の一節に由来し、中国で古く三帰依文として成立していました。2の供養文は仏教儀礼の為に、唐の智昇が730年頃撰した「集諸経礼懺儀」の冒頭にある文言とほぼ同じもので、その原典は仏陀跋陀羅(429年没)訳「観仏三昧経」巻10にあります。3の如来唄と4の散華は四箇法要の内の2つと共通し、前者は中国で古くから法会に用いられてきた梵唄の1つ「集諸経礼懺儀」にも載っている「勝鬘経」から引用され、修二会でそれが短く省略されています。4の散華も梵唄の1つで、普通の四箇法要では三段に分かれて唱えられるが、修二会では初段が略され、中段と「法華経」化城喩品(けじょうゆほん)から採られた廻向句の後段とから成って、節は修二会独特のものです。5の呪願は、初夜と後夜に唱える大呪願と、それ以外の時に唱えられる小呪願からなり、経からの抜粋でなく、前者は特に法会の趣旨を延べたもので、大導師によって唱えられるが、この経はく平安時代以降、修二会の関係者によって新たに作成され、挿入されたものと思われます。 |
散華行道
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称名悔過
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そして、最も重要な経が、6の称名悔過と7の宝号で、6は、その大部分がインドへ求法の旅をした玄奘三蔵法師(664年没)訳「十一面神呪心経」からの抜粋で、観世音菩薩にまつわる仏名を唱え、観世音菩薩のお姿を称(たた)え、諸々の有情(うじょう)、要するに生きとし生ける者の為、観音様に慈悲をお願いする言葉が連なっています。7は、「南無観自在菩薩(なむかんじざいぼさつ)」と云う観世音菩薩の名号の事で、初段でフルネームを唱え、第二段で菩薩を略し「南無観自在」、第三段で更に短く「南無観」となり、それぞれ節を変えながら繰り返し唱えられます。また、10の大懺悔は、今も中国で礼仏懺悔文の1部に用いられ、智昇の「集諸経礼懺儀」にも載っています。14の廻向文の廻向は、果報や善業の結果を他人に振り向けることを意味し、修二会では練行衆が日夜苦行して得た結果としての功徳を三宝(仏、法、僧)や、神々、あらゆる人々に振り向け分与する意味で、略して向(こう)と唱えられるが、分与の相手方は「六時の行法」それぞれで24カ所に及び、「六時の行法」の度毎に繰り返され、14日間を通して述べ2016回になり、練行衆の十一面懺悔は、毎日正午に一回食事をとった後、一切の飲食を断って1日6回×14日、総計84回勤められます。
また、修二会では経を唱える十一面悔過の他に、毎夜19時の「初夜」に神名帳(じんみょうちょう)の奉読があり、神名帳に日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれ、それを読み上げ修二会の行法を照覧あれと神々に勧請し、19時頃の「初夜」と23時頃の「後夜」に大導師の祈願と咒師の四王勧請があり、大導師の祈願は、国家の安全、世界の平和、人類の幸福を祈る作法で、咒師の四王勧請は、大導師の祈願を完全なものとする為、金襴の帽子を被り、金剛鈴を振って、内陣の須弥壇の回りを差懸で床を踏みしめて廻り、大音声に四天王とその眷属を勧請する作法で、一般参詣者も礼堂でこれらの所作を垣間見て、音声を聞くことが出来ます。 |
神名帳と造花の椿
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草履と差懸(さしかけ)
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なお、「初夜」に先立ち、3月1日〜11日と13日の19時、12日は19時半、14日は18時半頃、童子に「出任の案内」と呼ばれて、練行衆が屋根の在る登り廊(北石段)を上がる時、足元を照らす大松明が焚かれ、これを「松明上堂」と云い、練行衆11人の内1人は処世界役で松明を焚かず、一足先に本堂へ上がって掃除をされるから、お松明は下座の練行衆から順に10名分10本、間をおいて上堂しますが、特に12日の夜に焚かれる大松明は特大で、孟宗竹の先に杉枝を薄い杉板で駕籠の様にして包み、藤蔓(ふじづる)で縛った「籠(かご)松明」です。普段の2倍80キロもあり、この日は一度上堂した処世界役が本堂から下りて、再度の上堂に籠松明が焚かれるから、11名分11本の籠松明が焚かれ、これらの松明の材料は京田辺の講による「竹送り」の真竹で、また、藤蔓は信楽の川縁(かわべり)で採って、芯の「松明木」は三重県名張市赤目一ノ井の「伊賀一ノ井松明講」から東大寺へ送られ、童子により作られた大松明が修二会で焚かれ、二月堂の欄干から振り廻されると一斉に怒濤の歓声が上がり、火の粉を被ると一年間無病息災です。 なお、3月1日〜13日は、上堂松明(お松明)が回廊に1本ずつ上がり、向かって欄干の左角から突き出して振られ、その後、童子が振り回しながら右へ移動して、また、欄干の右角から突き出されて振られた後、お松明は回廊を右へ廻って消され、そして、次ぎのお松明が上がるので、全てのお松明が上堂するのに30分以上掛かるが、3月14日は、フィナーレで、18時半頃〜、練行衆10名が10本のお松明と共にいっぺんに上堂し、お尻に火が付きそうなので「尻付け松明」と呼ばれ、上堂すると本堂の舞台の欄干上に10本全てのお松明が並んで振り回され、ものの5分で終わるから、ちょっと早めに行かれないと見逃します。 |