石仏の里「当尾(とうの)」  その10

 恭仁大橋から木津川の上流を見る

 JR関西線本線「加茂駅」の北口から東へ行くと、「木津川(昔は、泉川)」に「恭仁(くに)大橋」が架かっています。昭和61年11月に架設されて、大橋を渡った北詰に大伴家持がよろしき山並み泉の流れ永久にと「恭仁京」を詠んだ万葉歌碑が建っており、

 今造る 久邇の都は山川の さやけき見れば
 うべ知らすらし      巻6−1037

また、大橋から北へ向かうと、蛇吉(じゃきち)川を渡って、300mほど行くと国道163号線で、左へ向うと京都木津、右へ向うと笠置から伊賀上野です。
 恵美須(えびす)神社

 「木津川」の「恭仁大橋」を渡って、川沿いに下流へ辿ると、こんもりとした森の中に「恵美須神社」が鎮座しています。木津川に隣接しているため、洪水で兵庫の西宮恵比寿まで流されたが、住民の夢枕に鯛を右脇に抱えた神さまがお立ちになり、西宮まで船で迎えに来い、と云われたので、お迎えしたのが、対岸の「大野勝手神社」で、そこから更に神輿に乗って無事還り着かれ、祭神は恵美須様の事代主命、本殿は権現造で、蛭子(ひるこ)明神記録による寛元2年(1244年)の棟札があり。なお、毎年1月10日商売繁盛と交通安全の祈願で、方々からの参拝客で賑わい、9月15日は氏子が揃って「宮ごもり」をされます。
 恭仁(くに)神社

 「恵美須神社」から、田圃の畦道を通って、北に向い、国道163号線のガード下を潜って更に北へ向うと、長い参道の正面に舞殿とその左右に仮屋を有し、その奥に割拝殿と本殿を配する南山城地方特有の社殿配置をなす「恭仁神社」が鎮座しています。元は菅原道真公を祀った村社「天満宮」で、1863年(文久3年)春日若宮の社殿を移築され、本殿は春日造。なお、昭和40年恭仁京阯に鎮座していた「御霊神社」を合併し、社号を現在の「恭仁神社」に改めました。祭神は、崇道天皇及び藤原太夫人と菅原道真公の三柱で、1月1日元旦祭、3月上旬春祭、10月17日秋祭、昔から伝わるお祓いに、六三の祓いがあります。
 史跡「山城國分寺阯(舊恭仁京阯)」

 また、「恭仁神社」の長い参道を出て、左へ折れ東へ向うと、木津川市立「恭仁小学校」があり、その東側の広場に塔の礎石が残り、その中に史跡「山城国分寺跡」の石碑が建ち、更に小学校の裏、北側にも史跡「山城國分寺阯(舊恭仁京阯)」の石碑が建っています。ここは「旧恭仁宮阯」でもあり、聖武天皇が平城京を離れ、740年(天平12年)橘諸兄に命じて都の建設を始められ、翌年「恭仁京」が置かれたけど、「紫香楽宮(滋賀県)」の造営も始められ、743年(天平15年)都の建設を止め、建物は国分寺に施入され、大極殿が金堂になり、翌年「難波宮」を都と宣言し、882年(元慶6年)国分寺も焼失しました。
 海住山寺(TEL 0774-76-2256)

 山城國分寺阯、舊恭仁宮阯(旧くにノみやあと)から北に見える山の方へ向うと、山中にオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが明治時代に造った砂防工事の石垣が今もあり、更に急な山道を辿ると、やがて真言宗智山派「海住山寺(かいじゅうせんじ)」に至ります。735年(天平7年)聖武天皇の勅願により東大寺の良弁僧正が建立し、重文の本尊「十一面観音菩薩像」を安置し藤尾山「観音寺」と号したのが始まりですが、1137年(保延3年)焼失して、1207年(承元元年)奈良「興福寺」の解脱上人貞慶が補陀洛山「海住山寺」と改称して復興し、かっては興福寺の末で、かなりの伽藍を誇り、五重塔が残っています。
海住山寺の国宝「五重塔」

 なお、境内に「苦ぬき観音」「苦ぬき地蔵」。ささやかな願いをきっと聞いて下さる「一言地蔵」。うんと頑張って持ち上げ、願をかける「もち上げ大師」。腰掛けると良縁に恵まれる「茄子」等が置かれ、本堂を中心に重文の「文殊堂」等も建っていますが、本堂の右脇に建って絢爛たる威容を誇る国宝の「五重塔」は、1214年(建保2年)解脱上人貞慶の一周忌に弟子の慈心上人覚真(藤原長房)が先師の供養の為に建立しました。鎌倉時代の五重塔としては、全国でもこの塔だけです。高さは17.7mで、三重塔なみに可愛らしく、初層に銅板葺で吹抜けの裳階(もこし)を付けていますけど、これは昭和37年の解体修理で以前に裳階があった事が確認され、近年になってから付けられ、裳階部分が吹放しの例は他にありません。また、木造五重塔で裳階を付けているのは、法隆寺とここだけです。なお、初層内部は五重塔としては珍しく心柱がなく、四天柱内を厨子(ずし)にして、秘仏で、本尊の「阿弥陀如来坐像」が安置されています。
 金胎寺(TEL 075-571-0011)

 「海住山寺」から急な参道を下りて、R163を左(東)へ行き、木津川へ流れ込む和束(わずか)川沿いに府道5号木津信楽線を北東へ向い、バス停「和束河原」で左折して、和束大橋を渡り、府道62号宇治木屋線を北上し、途中で右折し林道2号鷲峰山(じゅうぶざん)線を東へ行くと、真言宗醍醐派鷲峯山「金胎寺(こんたいじ)」です。676年(白鳳4年)役行者42歳が厄除けの時、自像を刻んで奉安開創し、722年(養老6年)越智泰澄が大伽藍を建立され、山岳寺院、修験道霊場として栄え、南山城の最高峰・鷲峯山(標高686.7m)は大和の大峯山に対し、北の大峯と呼ばれ、林内の崖に「行場」があります。
 金胎寺の「本堂(弥勒殿)」

 「行場」は、「山門」を入った正面の「社務所」へ申込み、その横から向うと、まず「植栽林」があり、「行場の埴生」、南面の尾根部で、土壌の発達が悪くアカマツ林になっており、更に下った北面と南面の中腹部は、アカシデ、イロハカエデ、ケヤキなどを主とする落葉広葉樹林で、いずれの林も自然の状態がよく保持され、林を抜けると、「行場」で、胎内潜、東西覗、五光の滝、鐘掛、蟻の戸渡りなどの奇岩巨岩が連なり、行場巡りは修験道の山岳修行の形態を今に伝えています。なお、「本堂」は「山門」を入らず、左折して「山門」の前を上がった境内にあり、1826年(文政9年)に中興の良寛が諸堂宇を再建しました。
 金胎寺の重文「多宝塔」

 本尊「弥勒菩薩坐像」を安置する「本堂」の左側に「大師堂」があり、また、左斜め前に「鐘楼」が建っていて、大きな鐘の吊り下がったその横を通って上がると、「役行者像」を安置する「行者堂」が建っています。なお、「本堂」の直ぐ右斜め前に、1298年(永仁6年)第92代伏見天皇が退位後、当寺で出家して建立された重文の「多宝塔」が建ち、また、その横を通って登ると、京都府歴史的自然環境保全地域に指定された「鷲峰山」の山頂です。広場の中央に正安二年(1300年)の銘がある重文「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が建っています。なお、古くは、「鷲峰山」を「空鉢(くはち)の峰」と呼んでいた様で、奈良時代に泰澄大師が修行中、虚空に鉢を投げると、施物の米が入って戻って来たと云われ、後その鉢を峰に埋めたと伝えられています。また、1331年(元弘元年)8月21日後醍醐天皇が奈良から当寺に行幸されたが、当地は大軍を集めるのに適さず、翌日笠置寺へ向われた後、当山も鎌倉方に焼かれました。
 「東海自然歩道」から和束町の茶畑

 「鷲峰山」の頂上から下りて、「金胎寺の山門」の直前で右折し、少し進むと、「下乗」の石標が建っている所から左側の崖下へ下りて行く山道があり、車は通れない「東海自然歩道」で、「金胎寺」から山道を下って、徒歩約1時間、落葉広葉樹林帯を抜けると、目の前が開けて、「和束茶」の畑が広がり、和束町の集落が眼下に見渡せます。集落の中を通って、「府道5号木津信楽線」のバス停「原山」へ出ると、バスで西へ行って24分JR関西線「加茂駅」へ至ります。なお、バスで東へ行くと約50分で焼物の里「信楽」で、また、「府道5号木津信楽線」を渡って、「東海自然歩道」を南へ歩くと、南山城の「童仙坊」です。
 加茂町の「銭司(ぜず)之遺跡」

 なお、「金胎寺」〜「府道5号木津信楽線」を通り西へ7キロで、国道163号線に至り、「木津川」へ流れ込む「和束川」の「菜切橋」を渡って国道を東へ行くと、道に面して左側に特別養護老人ホーム「加茂きはだ園」があり、この辺り加茂町銭司(ぜづ)で、そして、その先の道路の左脇に石碑「銭司之遺跡」が建っています。女帝第43代元明天皇の都が藤原京にあった大和時代、708年(慶雲5年)武蔵国から銅が産出し、それによって年号が「和銅」と改められ、この地に鋳銭司(ちゅうせんじ)が設けられて、本邦最古の銭貨である銀銭と銅銭の「和同開珎(わどうかいちん、又は、わどうかいほう)」を鋳造しました。




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