こもりくの泊瀬「初瀬街道」長谷寺の辺り  その7

 天然記念物指定「天狗杉」

 また、「登廊」にもどって、上へ上がって行くと、右に直角に曲がる角の所に樹高約60mの「天狗杉」が植わっています。今から約310年前、江戸時代の1690年代(元禄年間)、後に猊下(げいしょう)にまでなった高僧がいましたが、彼の修行時代、夕暮れ時に長い「登廊」に吊下がっている長谷寺型灯籠の1つ1つに火を点けて行きました所、点ける端から火が消えてしまうので、不思議に思って隠れて見ていると、天狗が悪戯をして消し廻っていました。後を付けて行くと、その天狗の棲みかがこの杉の巨木だったと云う事で、「天狗杉」と云われています。更に登廊を上がって突き当たると「貫之梅」が植わっています。
 紀貫之の「故里(ふるさと)の梅」

 長谷寺には、仏像、経典、曼荼羅、宋版一切経など国宝、重文の美術品の他、豊山文庫に貴重な学術書が寺宝として多数収蔵され、多くの文学作品に登場し、万葉集、古今集、源氏物語、枕草子、蜻蛉日記、更級日記、連歌や、芭蕉、蕪村、虚子の俳句にも詠まれ、また、紀貫之が初瀬詣で久方ぶりで訪れた宿の主人に厭味を云われ、その心変わりを皮肉って詠い、「古今和歌集巻1−42」、「小倉百人一首」に載っている「故里の梅」は、第三登廊(雲い坂)の東側にあり、

 人はいざ 心も知らず故里(ふるさと)は
 花ぞ昔の香に匂ひける  百人一首35
 関西花の寺「長谷寺」の牡丹

 なお、「登廊」を上がって、「本堂」の外舞台から遙か遠く竜門の山並を望み、また、眼下の境内諸院を見ると、春は梅やに牡丹、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は冬牡丹が咲き、特に4月下句〜5月上句、登廊の周辺に咲く牡丹は、唐の僖宗皇帝の妃で心優しく聡明な馬頭夫人 (めずぶにん)が、顔が長くて、不細工で、悩んでいると、穀城山(こくじょうざん)の索仙(さくせん)仙人が「日本国大和長谷寺観音に祈れ」と云ったので、使者を遣わし祈願をしたら、観音の霊験を受け、絶世の美女になりました。その礼として、十種の宝物と牡丹十数株を献木され、今では5月上旬境内一面に約150種7000株の牡丹が咲きます。
 本長谷寺(もとはせでら)

 長谷寺の大殿堂「本堂」から真っ直ぐ西に出ると、参道の左右に大黒堂、御供所、開山堂、弘法大師御影堂などが建っていて、参道を突き当り左へ曲がると、「本長谷寺」で、その奥に一切経堂が建っています。686年(朱鳥(あかみどり)元年)に第40代天武天皇の病気平癒のため、ここ「こもりくの泊瀬山」の西の岡(現在の本長谷寺)に川原寺の僧、道明(どうみょう)上人が三重塔(現在は、五重塔の直ぐ南側に礎石だけが残っています)を建立して、国宝の「銅板法華説相図(千仏多宝塔銅盤、今は宗宝蔵に安置)」を安置したのが長谷寺の始めで、以来ここを「本長谷寺」と称し、今は南隣に「五重塔」が建っています。
 三重塔跡の北に建つ「五重塔」

 727年(神亀4年)聖武天皇の勅を奉じて、今の「本堂」のある東の岡に「十一面観音菩薩」を祀った徳道上人は、観音信仰に厚く、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳で、「長谷寺」を三十三所観音霊場第八番札所とし、根本霊場とされ、その後、平安時代になって観音信仰が盛んになると、京の貴族間に長谷寺詣(もうで)が流行(はや)って、右大将藤原道綱の母が書いた「蜻蛉(かげろう)日記」や、菅原孝標女(すがわらノたかすえノむすめ)が書いた「更科(さらしな)日記」に長谷寺詣のことが載っていて、また、清少納言の「枕草子」では「正月に籠りたるは、・・」と記されて、今も正午に響く法螺貝の音に驚き、紫式部の「源氏物語」では22帖、玉葛の君は初瀬詣が舞台です。そして、室町時代になると、庶民の間に伊勢参りが盛んになって、大和から伊勢への伊勢本街道の道筋にある長谷寺へも参詣する人々が増えて、更に長谷寺詣が流行するようになりました。また、1772年(明和9年)3月7日43歳の本居宣長が「菅笠日記」で長谷寺の鐘の音を聞きました。




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