文学に見るこもりくの「初瀬詣(はつせもう)で」

 隠国(こもりく、「く」は場所、所の意)とは、両側から山が迫って、それに囲まれたような所、泊(初)瀬にかかる枕詞で、柿本人麻呂が万葉集巻3−428で、次の歌をよんでいます。

 こもりくの 泊瀬の山の山の際(ま)に いさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ

なお、万葉集巻7−1408には、次の歌があり、

 狂言(たはこと)か 逆言(およづれこと)か 隠国(こもりく)の 泊瀬の山に
 廬(いほ)りせりといふ


 「廬りせり」とは、仮小屋で斎(い)み籠ることで、この歌では死人が葬られたことを嘆いていますが、「隠国の」と詠われる「泊瀬の山」は、墳墓の地で、魂を鎮める所です。また、万葉集巻13−3331では、「泊瀬の山」が詠われ、

 隠口の 泊瀬の山 青旗(あおはた)の 忍坂(おさか)の山
 走出(はしりで)の よろしき山の 出立(いでたち)の くはしき山ぞ
 あたらしき山の 荒れまく惜しも


「走出のよろしき山」は、尾根の連なりが美しい山、「出立のくはしき山」は、山容の素晴らしい山と云う意味で、古来より讃えられて来た山並みが荒れるのは惜しいが、

 新義真言宗豊山(ぶざん)派の総本山、西国三十三ヶ所、第八番札所、豊山「長谷寺」は、奈良時代、第45代聖武天皇の辞世、727年(神亀4年)僧徳道(とくどう)によって「十一面観音堂」が建立されて以来、貴族の間に観音信仰が起り、特に平安時代も中頃、現世利益を祈願する観音信仰が盛んになって、987年(永延元年)10月花山院(かざんいん)上皇の御幸、991年(正暦2年)10月女院の東三条院が参詣し、1017年(寛仁元年)3月51歳で摂政を辞した従一位藤原道長は、同年12月太政大臣になり、翌年(寛仁2年)2月太政大臣を辞し、翌々年(寛仁3年)3月出家し法名・行観(後に行覚)になって、1024年(万寿元年)11月16日長谷寺に参詣して7日間参篭し、同じく藤原摂関家は、1089年(寛治3年)10月摂政師実(もろざね)が参詣して造顕供養を行ったが、この頃宮廷女性の初瀬参りも盛んで、京都から宇治、山城(泉橋寺)、海柘榴市(つばいち)と泊まりを重ねながら3泊4日も掛け、ゆるゆると輿に乗り参詣しています。


 紫式部の源氏物語」では、玉鬘(たまかずら)の姫君が、故あって身を隠していた筑紫(九州)から乳母の勧めで足を引きずりながら京都から徒歩で来て、4日目に最後の泊まり椿市(つばいち、海柘榴市)で、昔は母の夕顔に仕え、今は光源氏に仕えている女人(右近)に巡り合った宿の描写などがこまごまと書かれ、それから初瀬の観音さまに詣でると、現世のご利益があり、その後すぐに光源氏の六条院の屋敷に引きとられ、華やかな宮廷での暮らしを得ましたが、幸せだったかは疑問です。なお、この物語に想を得たのが、彼女の美貌ゆえの苦悩を主題とした金春禅竹(こんぱるぜんちく)作の能「玉鬘(玉葛)」で、能では玉鬘の化身(霊)が、旅の僧を長谷寺の「二本(ふたもと)の杉」まで案内して、自分の数奇な運命を語り、僧の回向で彼女が成仏するという筋立てです。


 なお、清少納言も詣でて、枕草子」に「市は(中略)辰の市・里の市・椿市、大和に数多ある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにやと心ことなり」と書き、長谷寺の事を事細かに描写しているが、長谷寺の古い参道は、東の谷二本の杉辺りから椙(すぎ)坂を登ったけど、正面から本堂へ登る道が開けたのは、第66代一条天皇の時(1千年頃)、勅願によって仁王門が移築され、春日社の社司中臣信清が子(信近)の病気平癒を感謝し、回廊を建立してからと延べ、牛車で石段の下に乗り付け、「初瀬などに詣でて、局(つぼね)する程、くれ階(はし)のもとに車ひきよせ立てたるに、帯ばかりうちしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)と云ふものを履きて、いささかつつしみもなく、下り上るとて、なにともなき経のはし打ちよみ、倶舎(ぐさ)の頌(す)など誦しつつありしこそ、所につけては可笑しけれ。・・・」と云い、坊さんがさっさと登廊を上がり下りするのに驚き、彼女は手摺に掴まってゆるゆると登り、本堂では灯明が沢山あがって、「仏のきらきら見え給へるは、いみじうたふとき・・・」と書いています。


 また、菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)も初瀬詣でて更級(さらしな)日記」を書き、見るもの聞くもの全てに新鮮な感動を覚え、心が浮き浮きする様な楽しい参篭だったようで、三日三晩お籠りをして、稲荷明神から杉を賜わる霊夢を見るが、彼女の伯母で、藤原道綱(みちつな)の母は、夫兼家(かねいえ)の浮気に悩み、ヒステリーを起し家出同然に2度も参詣し、初瀬詣でを文学に最初に書いた蜻蛉(かげろう)日記」でも、参篭の風景描写は余り無く、「からうじて、つばいち(海柘榴市)に至りて、例のごと、とにかくして、いでたつほどに、日も暮れはてぬ。雨や風、猶(なほ)やまず、火ともしたれど、ふきけちて、いみじく暗ければ、夢の道のこゝちして、いとゆゝしく、いかなるにかとまで、思ひまどふ。からうじて祓(はら)へ殿(ど)に至りつきけれど、雨しらず、たゞ水の声のいと激しきをぞ、さななりと聞く。御堂にものするほどに、心(ここ)ちわりなし。おぼろけに思ふこと多かれど、かくわりなきに物おぼえずなりにたるべし。・・・」と書き、ただ雨に降り込められ、とっても憂鬱で、帰りに夫の藤原兼家が慌てて宇治まで迎えに来ても嬉しかったとは1つも書いておりません。


 更に鎌倉時代になると、1227年(安貞元年)正月源頼朝の妻、北条正子も詣でて、室町時代には、長谷寺の本尊「十一面観音」が、伊勢神宮の祭神「天照大神(伊勢大神)」の本地仏(ほんじふつ)とされ、伊勢参宮の道すがら、庶民の初瀬詣でも盛んになり、なお、中世の頃から僧が一晩おきに奈良と初瀬に泊って、一千日あるいは一千五百日の間修行していましたが、「多門日記」永禄9年(1566年)5月の条に、「奈良・初瀬の融夜する法師」のことが書かれ、融夜僧が上(かみ)街道を往復して、奈良では春日山麓の新薬師寺に近い融夜堂に泊っていたとあり、空也も奈良の融夜堂と長谷寺を融夜のうちに往復し、その徳を慕って、融夜行は明治時代末頃まで続けられました。


 なお、清少納言もしんどい思いをして上った回廊は、人間の煩悩108に因んで全長108間(約196m)399段あり、天井から大きな釣灯篭(つりどうろう)が下がっている石段の左右は、牡丹園で、回廊を登り切った所の本堂は、堂々とした舞台造、そして、内陣の本尊「木造十一面観音立像」は、楠(くすのき)で造られた「長谷寺型観音」の巨像です。


 また、江戸時代には、1772年(明和9年)3月本居宣長が吉野を訪ねる旅の途中、長谷寺に詣でて、管笠(すげがさ)日記」に「さて御堂にまゐらんとていでたつ。まず門を入て、くれはしを登らんとする所に、たがことかは知らねど、だうみようの塔とて、右の方にあり。やゝ登りて、ひぢをるゝ所に、貫之の軒端の梅といふもあり。また蔵王堂産霊(ざおうどうむすぶ)の神の祠など、並び立てり。こゝより上を雲ゐ坂と云ふとかや。かくて御堂にまゐりつきたるに、をりしも御帳かゝげたるほどにて、いと大きなる本尊(高さ7.88m)の、きらきらしうて見え給へる。人も拝めば、我もふし拝む。さてこゝかしこ見めぐるに、此山の花、大かたの盛りはやゝ過にたれど、なお盛りなるも所々に多かりけり。巳(み、12:00)の時とて、貝(法螺貝)吹き鐘撞(かねつ)くなり。むかし清少納言が詣でし時も、俄(にわか)にこの貝を吹いでつるに、驚きたるよし、書きおける。思ひ出られて、そのかみの面影も見るやう也・・・」と書いていますが、現在平成時代の長谷寺へ行かれても、12:00に古(いにしえ)と全く同じ法螺貝と鐘の音を聞くことができ、懐かしく不思議な感動を覚えます。


 なお、西国三十三カ所観音巡礼は、四国八十八ヶ所よりも古く、718年(養老2年)徳道上人が病死して、冥土の入口で閻魔大王に逢い「汝(なんじ)は生き返って衆生(しゅじょう)を救う為に三十三ヶ所観音霊場を広めよ」と託宣を受け、三十三の閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印(壇ダ印)を授かり、蘇生した上人が札所を広めようとしたが、誰も認めようとしないので、時期早朝と思い、聖徳太子開基第二十四番中山寺へ宝印を埋め、270年後の平安時代に花山院がそれを掘り出し、那智山「青岸渡寺」を観音霊場第一番として、西国三十三ヶ所を開いたが、三十三は、観音が三十三代身の仮の姿で現れ、衆生を済度し給うと云い、たとえ巡礼となって朱印をもらわず納経しなくても、ただ観光で参る逆縁(ぎゃくえん)衆生でも、最もしんどい第十一番上醍醐寺(かみのだいごじ)へ詣でると、御詠歌で「逆縁も洩らさで救ふ願なれば准胝堂(じゅんていどう)はたのもしきかな」と詠われ、衆生全て救われるから安心して詣でて下さい。


 また、大和路では、「枕草子」に「寺は、壺阪笠置法輪・・・」とお寺の筆頭に挙げられた「南法華寺(壺阪寺)」が西国三十三ヶ所第六番札所で、「今昔物語」巻十一の第三十八話に載っており、御詠歌で「今朝見れば露岡寺の庭の苔さながら瑠璃の光なりけり」と詠われる「龍蓋寺(岡寺)」が第七番、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が建立の時、春日明神が現れて、「補陀落(ふだらく)や南の峰に堂建てて今ぞ栄えん北の藤浪」と詠った藤原北家の氏寺、南都七大寺の1つ、法相宗「興福寺」の八角円堂「南円堂」が第九番ですが、空海から冬嗣が頂いた本尊「不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像」の霊験あらたかな利益を一般庶民にも開放され、番外として徳道上人御廟所「法起院」が、第八番札所「長谷寺」の参道脇、草餅を売っている門前町の内にあります。

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