南山の辺の道  その1

 東海自然歩道トレイルセンター

 長岳寺の「肘切り門」を出て直ぐの南東隣に写真の様な「東海自 然歩道トレイルセンター」が平成12年春にオープンしました。入館は無 料で、館内には東海自然歩道の散策案内図を掲げて、ボタンを押すと東海自然歩道笠置コー ス、奈良市コース、天理市コース、桜井市コース、榛原町コース、室生村コース、曽爾村コースなどの 説明がなされます。「山の辺の道」は、奈良市コースの破石町(わりいしちょう)から桜井市コースの 慈恩寺まで東海自然歩道と重なっています。なお、トレイルセンター内にはその他に近くの「黒塚古墳」 の模型を置いて、その説明などもして呉ます。また、外庭に「力石」「水琴窟」が置かれています。

 長岳寺の重文「五智堂」

 長岳寺の「五智堂」は、お寺の境内で無く、西へ約1キロ行った 飛地境内で、JR桜井線・柳本駅に近い街角に建っている写真の様な方一間の小さな建物で、中央に太い 心柱を立てた極めて珍しい構造です。俗に真面堂(まめんどう)とも呼ばれ「大和名所図会」に傘塔と記 しています。心柱は欅(けやき)材を用いた丸柱で、その四方に受木を出して、梵字(ぼんじ)を刻んだ 額を東西南北に掲げています。これは、心柱を大日如来に見立てて、額の梵字が四方の如来を表しており 、建立年代は鎌倉時代の末期と云われています。長岳寺の伽藍から離れた街道沿いに立てられている事に 重要な意義を持ち、通行参拝人の格好の目印です。
 JR「柳本駅」前の「首無地蔵」

 「五智堂」から昔の上街道(長谷街道)を真っ直ぐ南へ向うと、右にJR桜井線「柳本駅」があり、駅前の広場の北側に「首無地蔵」が安置されています。地蔵は第10代崇神天皇の頃の名石で、往古仏教が盛んな時代に刻んで安置されたが、後年仏教が衰微し何者かの投棄によって、当駅南方「高木川」の堰石になったら、桜井線の線路上に轢死者が多く、皆首無しだったので、地蔵尊の祟りではないかと云うことになって、神仏崇敬の念を一般に徹底普及し、前記の如き災難を免れんため、昭和6年7月故坂口彦平氏ら有志により当所に地蔵尊が安置され、「首無地蔵」と称されて、朝夕礼拝し、諸々の災厄を免れんことを祈られます。

 柳本古墳群の1つ「黒塚古墳」

 JR柳本駅から東へ向う道を真っ直ぐ進むと直ぐ、国の史跡「黒塚古墳」です。築造は280年頃、中世は「黒塚砦」と呼ばれた楊本城・柳本陣屋の一廓で、古墳形状は周濠が元の形を著しく変形させているが、墳丘の全長132m、後円部径72m、高さ11m、前方部の幅60m、高さ6m、埴輪や葺石は確認されていないけど、平成9年から大和古墳群調査委員会が発掘調査を行い、後円部中央で全長8.3mの縦穴式石室を検出して、棺内から画紋帯神獣鏡1面、棺外から三角縁神獣鏡33面、その他多数の鉄製武器等を出土しました。なお、古墳の東側に石室を復元した「天理市立黒塚古墳展示館」があり、入館料は無料です。
 柳本藩陣屋跡(市立柳本小学校) 下記注

 なお、「黒塚古墳」の南側、道を渡った所が「天理市立柳本小学校」で、江戸時代は柳本藩陣屋でした。元々は興福寺の荘園・楊本荘で、寺領が荒廃した後、関ヶ原の合戦で東軍に属して戦った織田信長の末弟・織田源五長益(ながます、有楽斎)が、家康から所領三万石を貰い、内一万石を有楽(うらく)斎がとって江戸屋敷が有楽町で京都に隠居し、四男長政が一万石で芝村藩(桜井市芝、陣屋跡は桜井市立織田小学校)を貰い、五男尚長(なおなが)が一万石で柳本藩を貰い、初代尚長から十三代続いて信及(のぶひろ)の時に明治維新を迎え、後に小学校の校舎になった「大書院」と「玄関」が現在、橿原神宮へ移されています。
注:市立柳本小学校の写真の上にマウスを乗せると、重文、旧織田屋形(現在、橿原神宮文華殿)の写真が現れます。
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