室生と大和富士周辺  その7

 松平文華館(TEL 0745-93-2651)

 「室生寺」から「室生川」を渡って、「県道28号吉野・室生寺・針線」を東へ300m行って、駐在所の手前で右へバックする様に上がって行くと、「前田真三」氏の風景写真を展示している「松平文華館」があります。入館料300円、開館時間は10:00〜17:00、毎週木曜日が休館で、8月は夏期休館、12月〜3月末が冬期休館です。館内には、風景写真家「故前田真三」氏が撮影された「室生寺」や北海道美瑛町(びえいちょう)の丘の写真を中心に、室生寺管長の書なども展示しています。なお、館の玄関には四季折々の山野の花が飾られ、心和む空間を演出しています。また、500円で抹茶などもいただけます。
旧村社「龍穴(りゅうけつ)神社」

 また、東海自然歩道(県道28号吉野室生寺針線)へ下りて、「室生川」に沿って約1キロ東へ行くと、県道に面して延喜式内の古社「龍穴神社」が鎮座しています。当社は「室生寺」よりも古く、「室生寺」が「龍穴神社」の神宮寺として、「龍王寺」と呼ばれていた時期さえ有り、本殿は春日造、柿葺の拝殿は室生寺の般若堂を移し、祭神に雨乞いの神として知られる高龗(たかおかみ)神を祀り、817年(弘仁8年)6月朝廷が律師修円を遣わして、ここで雨乞を行い、867年(貞観9年)8月勅諚により室生山寺に竜王寺の法号が、竜穴神に善女龍王の神号が授けられて、961年(応和元年)8月に正四位下を叙しました。
 吉祥竜穴(龍穴神社奥宮)

 「龍穴神社」から東海自然歩道(県道28号吉野・室生寺・針線)を東へ約500m行き、「林道四ヶ村一号線」を左へ上がって行くと、右に「天の岩戸」が鎮座し、狭い通路を挟んで巨岩が左右に並び、注連縄が渡されています。更に北へ向かうと、また、白くて小さな鳥居が建っていて、龍穴神社の奥宮「竜穴」へと降りて行く崖道の入口です。狭い階段を下りると、「竜穴川(闇加利谷)」に至り、拝殿の対岸に大きく口を開けた「竜穴」があります。奈良の「猿沢池」に棲んでいた「善達竜王」が、采女の入水自殺で、春日の香山(こうぜん、春日山)に移り、そこも死人の捨場だったので、更にここへ来て移り棲んだ竜穴です。
 団栗の生る「小楢(コナラ)」の巨樹

 また、東海自然歩道(県道28号吉野室生寺針線)へ下りて、室生川沿いに東海自然歩道を東へ行くと、やがて、宇陀市室生下田口から曽爾村へ入って、屏風岩、鎧岳へ至りますが、下田口へ入る辺り県道の脇に一際大きな「小楢」が植わっています。樹高23m、幹周り5.15m、コナラでは県下一の太さを誇り、推定樹齢約250年、ブナ科の落葉高木で、クヌギ、クリ、リョウブと共に何処にでも見られる雑木です。以前は木炭材として、今では椎茸の培養材として用いられていますが、余り用をなさない木で、村人の関心も薄いのか、バス道路脇にもかかわらず、よくぞこれだけ大きな木になったものと、ほとほと感心します。
大野寺(TEL 0745-92-2220)

 バスで室生川沿に下ると、終点が近鉄大阪線「室生口大野駅」ですが、その1つ手前のバス停で降りると「大野寺前」です。真言宗楊柳山「大野寺」は「室生寺」の西門と云われ、役行者が「室生寺」と同時に開創し、824年(天長元年)空海が一宇を建立して、慈尊院「弥勒寺」と称し、後に地名から取って「大野寺」と名付、古くから室生寺の末寺です。明治33年12月11日大火で殆どの伽藍を失い、その後に再建された県指定の「本堂」は三間社流造、桧皮葺、本尊は、「木造弥勒菩薩立像」ですが、「地蔵堂」に鎌倉時代の作で、高さ80.3cm、桧の寄木造、玉眼で彩色した重文の「身代わり地蔵」を安置しています。
国史蹟「大野寺の大磨崖仏」

 大野寺の境内南奧に遙拝(ようはい)所が設けられ宇陀川対岸の屏風ケ浦の岸壁に彫られた「磨崖仏」を遙拝します。磨崖仏は、興福寺の僧・雅縁が笠置寺の磨崖仏を模して造立する事を発願されて、1207年(承元元年)10月から1年かけ宋人石工伊行末(いのゆきすえ)とその一派が線刻し、高さ14mの光背形凹の中に高さ10mの弥勒菩薩像が、顔をやや傾け右下を見下ろし、伸ばした右手を垂し、挙げた左手の親指と人差し指を合わせ、腰を捻って右足を少し前に踏み出し、左右の足でそれぞれ1個づつの蓮座を踏む踏み割り式です。開眼供養は1209年(承元3年)3月7日後鳥羽上皇の御幸で、盛大に行われました。
 宇陀市室生向渕の「穴薬師」

 近鉄大阪線「室生口大野駅」から西へ向い、ガード下を潜って、県道28号吉野室生寺針線を北へ行き、宇陀市営有償バスのバス停「向渕(むこうじ)」の少し北、左(西)側へ下りたら「穴薬師」があります。祠の中の石窟に、建長6年(1254年)2月云々の刻銘がある三体地蔵尊で、俗に「穴薬師」と云われていますが薬師如来ではありません。諸病に霊験があるとかで、参詣者が多く、特に耳病の人は、錐(きり)を奉納し、乳の出の悪い婦人は、手拭いを奉納すると良いと云われています。なお、バス停「向渕」から更に北へ向い、左(西)側に下りて山裾に至ると、毎年5月20日頃、吐山と共にスズラン自生南限地です。
 飯降(いぶり)薬師

 スズランの自生地から県道28号吉野室生寺針線を南へ少し戻って、フルーツランド南国・室生店(TEL0745-92-3330)を過ぎたら、左(東)へ急な坂道を上り、天理教向渕分教会の方へ向うと、その先に「飯降薬師」があります。道から上った正面に、大正12年建立の覆堂があり、切妻木瓦葺で、一段下がった境内の東側に瓦葺の篭堂が建っていて、境内の西北隅に銀杏の大木もあり、なお、覆堂の東側の石灯籠は、高さ151cmで、「貞享4年(1687年)泰寄進・御宝前8月8日願主庭雪」の銘が刻まれ、また、石灯籠の後ろ北側には、俗称「おばはん」と呼ばれる線刻の地蔵尊があり、安土桃山時代の作と云われています。
 水晶山(すいしょうざん)

 「飯降薬師」から南へ辿ると、東側に「水晶山」が聳えています。活断層のズレによって地肌が見え、柱状節理の形が水晶に似ているので、その様な山名が付いているが、水晶は採れません。なお、形が美しく、地域のシンボルで、地元の校歌で「姿気高く・・」と歌われ、区民に慕われてきましたが、垂直な岩肌は水晶の柱の様に俊立し、誰も寄せ付けないけど、新緑、紅葉、雪景色と春夏秋冬その季節感が豊かで、素晴らしい表情を伝え、今も時折カメラマンの良い被写体になって、富士山に似たその美しい山容は多くの人々に知られています。また、「水晶山」の西側の麓に建っているのが浄土真宗本願寺派龍護山「正定寺」です。
 正定寺(しょうじょうじ)

 「正定寺」は、本願寺第三代門主覚如上人の長男、在覚(そんがく)上人が1347年(貞和3年)伊賀国へ下向され、その帰途同国神戸郡より和州山辺郡向渕村を通られた時、村の長者が逗留を願い出て、「仏の教えをお説き下さい」とお願いし、その願いを聞き入れ、この地に一宇の坊舎を建立され、大和の真宗寺院では教団初期の頃の開基です。なお、本堂横の二尊堂に法然上人と親鸞聖人の連座の御影や、京都の常楽臺より頂いた在覚上人の遺骨を安置され、また、当地は親鸞聖人の母吉光尼が、1223年(貞応2年)73歳で亡くなった地で、当寺に吉光尼の剃髪時の髪による「毛の名号(南無阿弥陀仏)」が残っています。
 宇陀市室生大野の「六地蔵」

 「正定寺」から南へ行って、「安養寺」の手前の消防団倉庫の前を左へ折れて、東へ向い、展望が開けて南東に台高山脈の国見山が見える辺りで更に左へ折れて、急な登りの坂道を北へ行き、高いテラス付きログハウスの建った古大野の入口から昔の五ヶ谷街道の小道を約100mばかり西へ上ると、大野の上出田野垣内が見下せる古大野と大野上出の境、字勘定に「六地蔵」があります。横幅4m、高さ2mの安山岩の中央に、幅1m、高さ46cmの輪郭をとり、高さ45.5cmの六地蔵尊を深さ7cmに彫り、右端に「天文9年(1540年)12月24日」の銘があります。そこから南へ向うと、近鉄の「室生口大野駅」です。




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