奈良町  その3

 日蓮宗、法性山「常徳寺」

 また「三條会館」前の裏通りを真っ直ぐ東へ行き、突き当たって左へ曲がると、「常徳寺」があります。1340年(暦応3年)日蓮宗大本山、中山法華経寺(千葉県市川市)第三祖、浄行院日祐上人が東大寺の北方、川上の地に創建されたのが始めで、現本堂正面の扁額に康安元年(1361年)の銘があり、当時は東大寺塔中の1つで、法性房(ほをしょうぼう)と称し、東大寺官長の隠居寺で、日蓮聖人が南都に3年間遊学中、本堂で起居され、1599年(慶長4年)現在の北向町に移築して、現本堂は棟札により貞享三年(1686年)建立が知られ、奈良県下では数少ない日蓮宗の本堂が、県有形文化財に指定されています。
 率川神社(TEL 0742-22-0832)

 「常徳寺」から東へ行くと、直ぐ「やすらぎの道」で、右(南)に「伝香寺」があり、また、左(北)に「大神神社」の摂社「率川(いさがわ)神社」が鎮座しています。なお、「三条通り」交差点北西角にある「奈良市観光センター」から南へ直ぐの所です。延喜式内社で「春日三枝(さいくさ)神社」「三枝神社」「子守社」とも称し、「大倭神社注進状」によると、593年(推古天皇2年)2月3日春日率川邑(狭井川邑)に創建され、702年頃(大宝年代)に我が国最古の祭り「三枝祭り」を始めて、720年頃(養老年代)藤原不比等の曾孫是公が「子守社」を建立し、毎年6月17日三枝祭り(ユリ祭り)が行われます。
 「率川神社」の県文化財「3本殿」

 「率川神社」のご祭神は、中央に媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめノみこと)を祀り、向かって左殿に父の狭井大神(さいノおおかみ、大神神社での大物主大神)、右殿に母の玉櫛姫命(たまくしひめノみこと)を祀るので、当社は「子守明神」等とも呼ばれ、安産、育児の神として篤い信仰を集めています。なお、五十鈴姫は、他6人の媛女と大和三輪山の麓の狭井川のほとりで山百合の花を摘んでいる時、初代の神武天皇に見初められましたが、神武天皇には東征の際に日向に置いてきた本妻さんが有りました。けど、姫は神武天皇皇后になり、一夜御寝(ひとよみね)で 第2代綏靖(すいぜい)天皇ら3子をもうけました。

 律宗「伝香寺」(TEL 0742-22-5873)

 「率川神社」の南隣が「伝香寺」です。棟門、切妻造、本瓦葺で、県指定の「山門」が在りますが、入口は北側で駐車場の横です。創建は775年鑑真の弟子思託(したく)による「実円寺」で、その後、1584年(天正12年)36歳で亡くなった大和郡山城筒井順慶の菩提を弔うため、母の芳秀尼が奈良三銘椿(さんめいちん、東大寺開山堂糊こぼし」、白毫寺五色椿」と共に)の1つ「散り椿」を植え、筒井家の総菩提寺として「伝香寺」に改め、本尊は「釈迦如来」ですが、筒井家は「矢違千手観音」と称しています。また、江戸時代には肘塚(かいのつか)、法華寺両村(現奈良市)に寺領100石を有していました。
 伝香寺の国重文「本堂」

 本堂は、方三間、寄棟造で、1585年(天正13年)に唐招提寺の泉奨(せんしょう)を請じて建立され、本堂の左脇に「散り椿」が植わっています。また、本堂の右脇、大きなお地蔵さんの背後に建つ鉄筋コンクリートの仏堂に鎌倉時代の作で、重文「木造地蔵菩薩立像」が安置され、一糸まとわぬ奈良三裸形の1つですが、ちゃんと着物を着て、日夜裾が切れるまで人々を救済するので、別名「裾切れ地蔵」と称し、毎年7月23日「御更衣法要」に開扉され、新しく着替えられます。なお、昭和25年に地蔵の胎内から、ガラス製の舎利壺や、共に木彫りで2cmの「薬師如来」と10cmの「十一面観音」などが出て来ました。
 奈良三銘椿の1つ伝香寺の「散り椿」

 なお、奈良県指定文化財の「木造聖徳太子(南無仏太子)立像」も像内納入品を含み、他に「木造釈迦如来坐像」「板絵著色稲荷茶吉尼天曼茶羅図」「絹本著色釈迦如来画像」などもあります。また、表の四脚門も奈良県指定文化財で、境内の「率川幼稚園」の通用門になっている南門は「楽人長屋の門」でした。又、本堂横の「散り椿」は、毎年3月下旬に八重で咲き、普通の椿のようにポトリと花が落ちないで、花びらが1枚ずつひらひらと散って、境内が花弁の絨毯(じゅうたん)で埋め尽くされ、散り際が潔く、その様は、若くして亡くなった順慶法印の姿にも似て、彼を弔う意を込め、別名「武士(もののふ)椿」と称します。




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