奈良市西部から茶筌の「高山」辺り  その2

 大和文華館(TEL 0742-45-0544)

 また、近鉄奈良線「学園前駅」まで戻ると、駅の南側の直ぐ前が、短大、高、中、小、幼稚園まで揃った「帝塚山学園」です。そこから東へ行くと徒歩7分で「大和文華館」です。近鉄(近畿日本鉄道株式会社)創業50周年記念事業の一環として建てられた美術館で、主に日本、中国、朝鮮の美術品を約2千点収蔵、その内国宝4点、重文30点が含まれ、種類も絵画、書蹟、陶器、彫刻など多岐にわたり、年間7回ほどの平常展で順次入れ換えながら展示され、また特別展が年に1、2回開催されます。入館料は平常展大人1人600円、特別展が900円で、入館は、10:00〜16:00。月曜日(祝日の場合は、翌日)が休館。
 蛙股池(かえるまたいけ)

 「大和文華館」の南側に接し「く」の字形に広がる池が「蛙股池」です。堤長180m、堤高14m、受益面積38haで、池の中央に「綾女(あやめ)橋」が架かり、西詰めに「菖蒲池(あやめいけ)神社」が鎮座し、池は、607年(推古天皇15年)の冬、倭国(やまとノくに)に造られた菅原池(すがわらノいけ)で、日本最古のダムとも云われ、同時に同様の池が倭国に造られて、高市池(たけちノいけ)、藤原池(ふじわらノいけ)、肩岡池等がそうです。また、同年秋7月3日大礼(だいらい)小野臣妹子(おのノおみいもこ)が鞍作福利(くらつくりノふくり)を通訳にして、大唐(随)へ遣わされ、翌年帰朝しました。
 中野美術館(TEL 0742-48-1167)

 「大和文華館」から更に南東へ約200m行くと、蛙股(かえるまた)池を夾んで「大和文華館」の隣に財団法人「中野美術館」があります。中野家第11代当主が家業の林業に携わる傍ら、約25年間で収集された明治、大正、昭和の近代日本の洋画、日本画などを公開するために昭和59年3月に開館されました。入館料600円、開館時間10:00〜16:00、休館は、毎週月曜日と2月・8月、年末・年始です。主な収蔵品は、洋画で須田国太郎、青木繁、中村彝、村上槐多、万鉄五郎、岸田劉生ら異色の近代画家達の作品。そして、日本画では、村上華岳の「中国列仙傳16点」を始め、入江波光、土田麦僊らの作品です。
 赤膚(あかはだ)焼き窯元「大塩昭山」

 バス停「近鉄学園前駅南口」から「赤膚山」行バスに乗車し、阪名道路(県道1号奈良生駒線)を越して終点で下車し、バス停から少し戻って、西へ入ると、赤膚山「大塩昭山」があります。この辺りから東の麓「菅原」で古代に寺の瓦が焼かれましたが、赤膚焼は1590年頃(天正10年代)大和郡山城主であった大和大納言豊臣秀長が、尾張の常滑(とこなめ)から陶工の与九郎を招いて、五条山独自の登窯を開かせたのが始まりで、与九郎のその後は明らかではないが、江戸期になって千利休や古田織部と供に天下三大茶人の1人である小堀遠州や京都の工人仁清(にんせん)が巡歴して来て、土地の工人の指導にあたりました。
 窯元「大塩正人」の登窯(TEL 0742-45-4100)

 バス停「赤膚山」からちょっと戻って東へ向かうと五条山天神社の隣に赤膚窯「大塩正人」、更に東隣に「古瀬窯」があります。今の窯は、1780年代(天明年間)治兵衛(古瀬堯三の祖)が京都から五条山に入山して郡山城主柳澤保光{堯山(ぎょうざん)}の意向を受けて再興し、藩の御用窯として1790年頃(寛政年代)堯山から「赤ハタ」窯印を拝領し、遠州七窯{静岡の志戸呂焼、滋賀の膳所焼、赤膚焼、京都の朝日焼、兵庫の古曽部焼、福岡の高取焼と上野(あがの)焼}の1つとして世間に知られ、1840年頃(天保年間)柏屋武兵衛、一名奥田木白(もくはく)らの名工が出て、奈良絵風茶碗で有名になりました。
 登弥(とみ)神社(TEL 0742-45-3390)

 赤膚町から南へ行くと、石木町で、富雄川に沿って下流(南)へ向うと、旧道に面して「登弥神社」が鎮座しています。皇紀4年2月23日神武天皇がこの地に皇祖を祀ったのが始めで、後に登美連が祖先・天孫饒速日命の住居地(白庭山)に命夫婦を奉祀して当社を創建し、祭神は東本殿に高皇産霊神と誉田別命、西本殿に神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋命を祀り、毎年2月1日早朝「筒粥(つつかゆ)祭」が行われ、竹筒で小豆粥を炊いて、小豆の分量で豊凶を判断し、その結果を奈良市の石木町、大和田(おおわだ)町、大和郡山市城(じょう)町の農家に報告しています。
 富雄「丸山古墳」

 「登弥神社」から富雄川沿いに上流(北)へ行き、丸山橋を渡って「若草台」へ向うと、住宅地の北側に富雄「丸山古墳」があります。奈良盆地の北部に大型前方後円墳が築かれた4世紀の後半、矢田丘陵の麓に出現した近畿地方でも最大級の円墳で、直径86m。古墳からは、碧玉製の腕飾、合子、琴柱形の石製品、銅製釧などが見つかっていますが、斧・刀子・やり鉋(かんな)・鎌など、普通は鉄で作られる道具を滑石で忠実に写しかえた石製模造品が出土し、古墳時代前期の終り頃を代表する祭祀の道具で、古墳主の霊前において木につり下げたり、墓前に置いて死者を送り、現世の生活の安定を願ったのではと云われています。




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