二上山の麓、當麻の里  その13

 大津皇子(おほつノみこ)の歌碑

 「當麻寺」の北門から出ると「近畿自然歩道」で、少し行って二又で北へ辿ると「石光寺」へ向かいますが、道を北西へ上がると直ぐ公園で、大津皇子(天武天皇の第3皇子)が石川郎女(いしかはノいらつめ)に贈った万葉歌碑(巻2−107)が建っています。

 あしひきの山の滴に妹待つと
 吾立ち濡れぬ山のしづくに

 なお、石川郎女は、上記の歌に対し、巻2−108で「君が濡れけむ あしひきの 山の滴になりたい」と応えていますが、残念ながらその歌碑は在りません。
 大伯皇女(おほくノひめみこ)の歌碑

 大津皇子の万葉歌碑から道を北へ辿ると、姉の大伯皇女の万葉歌碑巻2−165が道の角に建っており、

 うつそみの人なる我や明日よりは
 二上山を弟世と我が見む 165

 大津皇子の同母姉、大伯皇女は14歳から26歳まで天照大御神に奉任する斎宮として伊勢にありました。大伯皇女が任解けて飛鳥へ帰ったのは686年11月16日、既に弟大津皇子はの妹持統天皇によって、1月半前の10月3日に処刑されていました。上記の悲歌は、遺骸を二上山に移し葬る時に詠まれました。
 中将姫の墓塔「十三重石塔」

 また、「當麻寺」の北門の方へ戻って「近畿自然歩道」を北へ辿ると、途中に地蔵堂が歩の左側に建ち、お堂の横を通って當麻北共同墓地へ入ると、直ぐ左に「中将姫の墓塔」が建っています。花崗岩で造られた十三重塔で、高さが約3m、初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を造って、そこに厚肉に彫出し、屋根は軒反りが強く、鎌倉時代末期の様式です。また中将姫のお墓は「ならまち」の「徳融寺」の境内にもありますが、こちらの方が立派です。なお、中将姫は763年(天平宝字7年)6月23日29歳の時、蓮糸で當麻曼陀羅を織り上げると、二十五菩薩の来迎を受け、極楽浄土に往生し、ここに眠っておられます。
 重文、奈良県最古の「五輪塔」

 更に當麻北共同墓地内東側の小高い所に重量感ある「五輪塔」が建っています。高さ2.5m、二上山の凝灰岩で造られ、塔身(水輪)が壺形で、頂部の宝珠(空輪)と請花(うけばな、風輪)も特異な形をしています。また、四方の側面には力強い薬研彫の梵字が刻まれていますが、銘文、年代記はありません。けど様式から平安時代の末期と推定され、奈良県下最古の五輪塔です。伝承では、源義朝に仕えた鎌田兵衛藤原正清の子鎌田小次郎政光の墓、もしくは、1159年平治の乱で亡くなった鎌田一族の供養塔とも云われていますが、今でも、その末裔で、奈良県香芝市鎌田の鎌田家によって、大切に守られ、供養されています。




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