水辺の「川西町」、「三宅町」から桃太郎の古里「田原本町」 辺り  その17
 「淨照寺(じょうしょうじ)」の本堂

 また「淨照寺」の本堂は、1651年(慶安4年)創建で、古風な面取り角柱・小屋組など当初の建材を多く残して、内外陣境の組物・蛙股(かえるまた)、向拝の木鼻・虹梁などが美術的に優れ、江戸時代初期の特徴をよく表しており、真宗大規模寺院の典型として、奈良県の有形文化財に指定され、境内を囲う塀は門跡寺院として五本筋壁の土塀が許されていました。本尊は「阿弥陀如来」で、寺宝の親鸞聖人絵像および梵鐘は、大谷本廟より拝領され、本堂正面の表門は、伏見城の高麗門を移築しています。また、明治10年には明治天皇の行幸、明治23年には昭憲皇后の行啓を仰ぎ、当時ご使用の書院が今でも現存しています。
 本誓寺(TEL 0744-32-2508)

 「淨照寺」の北隣が念仏道場大和25霊場、平野御廟所、浄土宗知恩院の末・慈航山(じこうざん)本覚院「本誓寺(ほんせいじ)」です。創建は鎌倉時代、1316年(正和5年)花園天皇の勅願所として本覚院と号し、もと八幡町にあり、賤ヶ岳七本槍の一人・平野権平長泰(ながやす)が五千石で当地を領して、「教行寺」退去の後、1647年(正保4年)二代目長勝(ながかつ)が現在地に移して平野家の菩提寺とし、1845年(弘化2年)知思院宮尊超法親王・有栖川宮に有縁の染筆額「本誓院」を賜り、本尊は「阿弥陀如来立像」で、また、「薬師如来坐像」は大仏の胎内の木で作られ、底部に公慶上人の銘があります。
 「広徳院廟」と「本覚院廟」

 なお、境内の墓地に平野家二代と九代領主の霊廟があり、二代長勝は、長泰の長男で、1603年(慶長8年)山城国伏見伯耆町に生まれ、1628年(寛永5年) 家督を相続して田原本町に陣屋を築き、町を整備して菩提寺「本誓寺」を建立し、領内の充実を計った名君で、1668年(寛文8年)66歳で没し、本覚院廟が霊廟です。また、九代長発(ながゆき)は1829年(文政12年)家督を相続した後、駿府城の加番を勤めて、書にも通じ、大和三筆と賞賛され、多くの書を残し、1853年(嘉永6年)40歳で没し、広徳院廟が霊廟です。また、外様大名平野家は、慶応4年(明治元年)やっと1万1石になりました。


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