山背(やましろ)古道  その1

 国史跡「歌姫瓦窯跡」

 万葉歌碑巻3−300が建つ、JR奈良線「平城山(ならやま)駅」西側から北へ向うと、船のマストのような送電線の鉄塔が2基建っている「鹿川」の辺に「佐保台西町街区公園」があり、東屋の背でフェンスを越しに「歌姫瓦窯跡」があります。迂回して崖を上がると国道24号奈良街道で、国道の西側に「野鳥の森」もあり、ここは平城京の背後で、標高約100mの奈良山丘陵の中央部に位置し、南から北へ延びる小さな尾根の西斜面に窯跡があり、ここで平城宮所用の軒瓦、平瓦、丸瓦を焼き、窯が営まれた時期は、窯の形式が平安時代に一般化するロストル式の平窯で、軒瓦の形式が比較的新しく、奈良時代末期らしいです。
 木津農業用水「文廻池分水場」

 「歌姫瓦窯跡」から「鹿川」沿いに北へ向い、国道24号に出て更に北へ向い、「井関川」を渡って直ぐ右に折れ、川沿いに東へ行き、JRの踏切を越すと、「文廻(ぶんまわり)池」です。東方に奈良の「春日山」が見え、その手前に茶色のバベルの塔(貯水塔)が見えます。なお、木津用水は古くから木津川の水を取り入れ、木津町中央農地を灌漑し、これまで幾度か施設の改修を行って、昭和27年の府営木津用水改良事業で木津川からの取水のためのポンプ施設及び農地へ水を送るためのパイプライン施設の整備が行われ、また、この「文廻池分水場」には、高い所にある配水漕の自然の圧力を利用した噴水が設置されています。
 「安養寺」の 「念仏石堂」など

 文廻(ぶんまわり)池から府道754号線へ出て、東へ向い、バス停「市坂南口」迄ゆるい坂を上がり、道から南へ少し入ると、736年(天平8年)行基が攝州で夢想を感じて開基した浄土宗・州見山(くにみやま)「安養寺」があります。また、バス通りに面して「安養寺」の「念仏石堂」と「役行者堂」及び「動(ゆるぎ)観音堂」が建っています。向って棟続きの左に、法然上人が南無阿弥陀仏と書いた紙と、石を置いて念仏を唱えたら、石だけが浮いた「校量念仏石」が安置され、棟続きの右に「役行者石像」を安置し、更に右の堂に村人だけ動かす事が出来た「十一面観音石仏」を安置し、北側の角に「仏足石」もあります。
 木津大谷「幣羅坂(へらさか)神社」

 また、「念仏石堂」の東隣が「幣羅坂神社」です。祭神は、大毘古命(おおびこノみこと)と天津乙女命(あまつおとめノみこと)です。なお、大毘古命は、第10代崇神天皇10年9月9日四道将軍の一人に任命され、27日に高志国(越の国、福井、富山、新潟の北陸3県)へ赴く途中、ここ山城国幣羅坂(奈良街道の市坂)で、腰裳(こしも)を着けた少女(天津乙女命)に出会い、少女が詠っていた歌の詞に「御真木入日子(みまきいりびこ、崇神天皇)」と云う言葉があったので、不審に思った大毘古が取って返し、天皇に奏上すると、建波邇安王(たけはにやすノみこ)が謀反を起す事が判って、建波邇安王が討たれました。
 岡田国(おかだくに)神社

 また、「文廻池」から西へ戻って、国道24号線を北へ辿ると、西へ入る「岡田国神社」の参道がJRの線路を跨ぎ境内まで続いています。当社は、近世まで「天神社」と称し、木津郷五か村の氏神として祀られて来ました。創立については明らかでありませんが、明治11年延喜式内「岡田国神社」に比定され、祭神として生国魂尊、菅原道真公を祀っています。なお、北へ下りた所に建つ旧社の社殿配置は、西面し、石垣の上に透塀を構えた一段高い所を神域として、本殿・摂社・小社などが建ち並び、その下の広場には舞台を中心にして、それを囲む様に拝殿・南北の氏子詰所を配し、毎年10月21日「布団太鼓祭」が盛大です。
 今は氏子のいない「稲荷神社」

 「岡田国神社」からまた国道24号線へ出て、国道の下を潜り、「井関川」の「新天神橋」を渡って、川沿いに土手の道を下流へ進むと、「城戸橋」の手前、土手の道から西へ入った「奈良街道」沿いに面して、「稲荷神社」が鎮座しています。鳥居を潜って奧へ入り、突き当って右へ曲った所、二匹の石造の狐が高い台の上にお座りしている背後、一段高い所に、江戸時代末期に創立された立派な社が建っていますが、現在は、氏子のいない神社です。なお、社の前には、以前は潰れそうな無住の民家が「奈良街道」からの拝観を妨げ、道からお社を隠すかの様に建っていましたが、罰当たりな為、今は取払われて更地になっています。




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