吉野  その7

 吉野「勝手(かって)神社」

 吉野八社明神の1つ、金峯山の入口に在るので「山口神社」とも称し、1185年(文治元年)暮れ、義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前が従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っている処を追っ手に捕まり、雅な姿で法楽ノ舞(神に奉納する舞)を居並ぶ荒法師達の前で舞わされたのがここ「勝手神社」です。祭神は、大山祇神、木花咲耶場姫命ほか三柱、社殿は、1604年(慶長9年)豊臣秀頼が改修したが、1644年(正保元年)12月焼失し、翌2年再建されたが、1767年(明和4年)にも焼失して、平成13年9月また不審火で焼失し、現在再建中で、社殿の後の小高い山が袖振山(そでふりやま)です。
 勝手神社の境内、背後は「袖振山」

 昔、大海人皇子(おおあまノおうじ、後の第40代天武天皇)が、「勝手神社」の境内で琴を弾じていたら、天女が背後の山の上から羽衣の袖を五度ひる返しながら舞い降りて、皇子に吉兆を啓示しました。この故事が宮中で舞われる「五節の舞」の起源で、後に都方の者が吉野山の春を楽しまんと登って来たら、一人の気高い女性が現れ、咲き誇る桜の花を眺め入り、家路も忘れた様なので、怪しんで尋ねると、「実は私は天女ですが、花に引かれてここまで参りました。信心をして下さるなら五節の舞を奏して見せましょう」と云って舞始め、花うるわしい春の景趣を讃えて御代の泰平を祝したその曲が、今の謡曲「吉野夫人」です。
 如意輪寺(TEL 07463-2-3008)

 「勝手神社」の横の三叉路を左(東)へ行くと「中千本」で、旧参道を下り瀬古川の谷から100mほど登ると塔尾山(とおのおさん)の中腹に浄土宗塔尾山「如意輪寺(にょいりんじ)」が在ります。吉野山から谷を挟み如意輪寺の「多宝塔」を東に見ながらバス道路を行くと、途中に県の天然記念物コウヤマキが植わっていて、 また、近鉄「吉野駅」からなら瀬古川沿いに南東へ2.5キロの所で、本堂の前に樹齢五百年の木斛(もっこく)が夏に甘い香りの白い花を咲かせ、ここは後醍醐天皇が1339年(延元4年)8月16日に皇位を後村上天皇に譲った後、52歳で崩御され、遺骸は境内を上がった裏山に葬られています。
 楠正行(くすのきまさつら)辞世の扉

 「如意輪寺」は、910年頃(延喜年間)日蔵道賢上人の開基ですが、元は役行者開祖・修行本宗の塔頭の1つです。本尊は「如意輪観音像」で、1346年(正平2年)12月27日亡き楠正成の長男・楠正行が一族郎党143人を引き連れて南朝の吉野の皇居に参内し、後村上天皇に別れを告げた後、後醍醐天皇の塔尾稜に詣でてから、四条畷の決戦に向かう時、本堂(如意輪堂)の扉に矢じりで辞世の歌を刻みました。

 かへらじと かねて思えば梓弓
 なきかずにいる名をぞとどむる
 北面する「後醍醐天皇塔尾陵」

 「如意輪寺」本堂の背後が塔尾山(とうのおさん)で、少し長い石段を登ると「第96代後醍醐天皇塔尾陵」があります。鬱蒼とした巨杉に囲まれ、石玉垣の中に収まる御陵は、権力奪回を目指したけど、思い叶わず無念の内に、1339年(延元4年)8月16日崩御し、「魂魄は常に北闕の天を望まん」と遺言された気持を汲んで、遙かに京都を望み北向しているが、後醍醐天皇は名を尊治(たかはる)と云い、第91代後宇多天皇の第2皇子、建武の新政を推進したけど、1336年(建武3年)足利尊氏の強要で偽(にせ)の三種神器を北朝2代目光明天皇に渡し、同年12月神器を持って京都を脱出し、吉野へ遷幸されました。
 観光車道沿いの「小判井戸」

 「如意輪寺」から南へ出て、バスの通る観光車道を近鉄「吉野駅」の方へ下りながら北へ向うと、途中でコンクリート道路の右(東)側に「小判井戸」があります。山肌の小さな岩の窪みに、今も清水がこんこんと湧き出していますが、延元の昔(1340年頃)、第96代後醍醐天皇が吉野の行宮(あんぐう)で歌をお詠みになる時の御料水になったと伝えられ、また、1594年(文禄3年)3月27日豊臣秀吉が秀次、徳川家康らと、花見の折りに、茶の湯の水として用いられたと云う名水で、今でこそ自動車道路の片ほとりに忘れ去られた様な存在ですが、吉野山には、こんな所にも昔語りにゆかりの深い史跡が伝わっています。




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