吉野  その4

 蔵王堂前の「四本桜」と、重文「銅灯籠」

 金峯山寺本堂「蔵王堂」正面の石柵で囲まれた中に4本の桜の木が植えられています。ここは1333年(元弘3年)正月16日後醍醐天皇の第2皇子、大塔宮護良(もりなが)親王が北条幕府の六万余騎の大軍に攻められ、吉野山に立て籠もった時、蔵王堂を本陣とし、落城に際し最後の酒宴を兵20余人と共に張った所で、後世ここに4本の桜の木を植え、「大塔宮の御陣地跡」として記念し、江戸時代の俳句で、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠まれ、また、石柵の中に立派な青銅の灯籠が1基建っていますが、これは、1471年(文明3年)妙久禅尼が寄進された物で、室町時代の秀作灯籠として重文に指定されています。
 村上義光が切腹した「二天門跡」

 「蔵王堂」の前の境内から石段を南へ下りる所で、脇を見ると、石灯籠の横に石柱が1本建っています。写真では、石段を上がり切った左の石柱で、「村上義光(よしてる)公忠死之所」と刻まれ、ここには、元「二天門」が建っていて、1333年(元弘3年)正月16日最後の御酒宴も終り、いざ決戦と云う時に、大塔宮の忠臣・村上彦四郎義光が、宮の鎧兜を身に着け、宮の身代わりとなって「二天門」へ駆け上がり、腹を真一文字に掻き切って、腸を掴み、櫓の板に投げ付けて壮絶な最後を遂げ、その隙に大塔宮は勝手神社横の谷を抜け、無事に高野山へ落ち延びる事が出来、また、義光の墓は北へ約1.4キロの所に在ります。
 第96代後醍醐天皇導きの稲荷

 「二天門跡」を下りた直ぐ横にお稲荷さんが建っています。これは「後醍醐天皇導きの稲荷」と云われ、昔北朝方との対立がはげしくなり、やむを得ず密かに京都の花山院を抜け出した後醍醐天皇が、途中夜道で迷われた時、とある稲荷の前で「むば玉の暗き闇路に迷うなり我に貸さなむ三つのともし灯」と歌を詠まれると、ひとむらの紅い雲が現れ、吉野への臨幸の道を照らし導き、1336年(延元元年)12月28日に天皇は無事吉野山の行宮(あんぐう、仮の宮)へ着きました。なお、天皇を導いた紅い雲は、金(かね)の御岳(みたけ、吉野山)の上空で消え失せたと云い、その時の稲荷を勧請したのが、「導きの稲荷」です。
 後醍醐天皇が開いた「吉野朝宮跡」

 「蔵王堂」から南の「二天門跡」を通らず、境内の西側へ下りると、ちょっとした台地で、「吉野朝宮跡」です。京都花山院を抜け出し、導かれて吉野へ入った後醍醐天皇は、始め吉水(きっすい)院を行宮とされましたが、そこが手狭になったので、蔵王堂の西下に在った実城寺(じつじょうじ)を行宮にされ、寺名を金輪王寺(きんりんおうじ)と改め、終始京都へ帰還する事を願いながら、ついに1339年(延元4年)ここで亡くなりました。なおその後、江戸時代に徳川家康が南光坊天海を吉野山の学頭に任じ、金輪王寺を元の実城寺に戻し、金輪王寺を下野国の日光へ移して輪王寺とし、吉野山を輪王寺の管理下に置きました。




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