吉野  その6

 東南院(とうなんいん)の「多宝塔」

 また、「東南院」境内の北側に立派な「多宝塔」があり、塔内に藤原時代中期の作で、県の文化財指定、木造の「大日如来坐像」が安置されています。なお、多宝塔は、江戸時代に和歌山県海南市の「野上八幡」にあったものを、その後「東南院」へ移転したものです。また、芭蕉の野晒紀行には「独り吉野の奥に辿りけるに真に山深く白雲峰に重なり、烟雨(えんう)谷を埋んで山賤(やまがつ)の家処々(ところどころ)に小さく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心の底にこたふ。ある坊に一夜を借りて、・先の句を読み・、また、西上人(西行法師)の草の庵の跡は、奧の院より右の方二丁ばかり分け入る程に・・・とくとくの清水は昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける・・」と書き残しており、それから4年後の1688年(元禄元年)3月に再び吉野山を訪れ、その時の事を「笈(おい)の小文」に書いています。

 吉野にて 桜見せうぞ 桧の木笠   芭蕉
 吉水神社(TEL 07463-2-3024)の山門

 「東南院」と道を挟み反対(東)側に鳥居が建っています。それをくぐって坂を下ると「従是吉水院」の標石が在り、そこからゆるい石段を登ると山門です。「吉水神社」は元は「吉水院」と云い、役行者が天武天皇の白鳳年間に創建した金峯山寺の塔頭の1つで、1185年(文治元年)源義経が兄頼朝の追害を逃れ愛妾静御前、弁慶らと共にここに身を潜めて、後世にその悲恋物語を伝え、また、1336年(延元元年)後醍醐天皇が京都の花山院を抜け出し、吉水院宗信の援護により南朝の行宮とし、血涙の歴史を記したのもここです。なお以後は、1594年(文禄3年)太閤秀吉がここを本陣として大花見の盛宴を催しました。
 吉水(よしみず)神社の「本殿」と「書院」

 「吉水神社」の祭神は、後醍醐天皇、楠正成、吉水院宗信法印で、写真の本殿に向かって右から合祀されていますが、元の寺号「吉水院」を廃して「神社」に改められたのは明治8年で、その時に他の修験系寺院ともども神仏分離令に続く修験道廃止令によりあわや取り崩しの危機にさらされましたけど、祭神に後醍醐天皇を迎えたので助かりました。なお、境内には義経縁(ゆかり)の「駒つなぎの松跡」「馬蹄跡」「弁慶力釘」等が在り、また、本殿の右側(写真の左端)に建っている国重文の建物は、日本最古の「書院」で、院内の「義経静御前の間」は室町時代初期、「後醍醐天皇玉座」の間は桃山時代の様式で造られています。
 国重文、源義経の「色々威腹巻」

 「吉水神社」には源義経・静御前・弁慶等の遺品、国重文の伝後醍醐天皇宸翰の御消息紙本墨書や、他南朝諸天皇の御物、太閤秀吉の遺品、狩野永徳の障壁画、その他に古美術、古文書等が多数在り、写真は、義経の色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)です。義経は平家を壇ノ浦で追討した後、兄頼朝に疎んじられ、1185年(文治元年)11月6日摂津国大物浦から船出し西国へ脱出したけど、暴風に遭い、主従四散し、武蔵坊弁慶、佐藤忠信、愛妾で白拍子の静御前らと、同年11月17日吉野山に落ち延び、吉水院に隠まわれたが、鎌倉の追及は厳しく、5日間の滞在で吉水院を後にして、吹雪の中を吉野の奥へ分け入りました。しかし、吉野山の奧は女人禁制で、静御前は泣く泣く義経と別れ、山下して捕まり、一方義経は、奧千本の蹴抜塔(けぬけとう)に隠れ、一夜を過ごした時、追っ手の襲撃を受け、佐藤忠信が獅子尾坂の花矢倉で防戦し、吉野一の悪僧横川覚範を倒して活路を開いて呉れたので、弁慶と共に奥州へ落ち延びました。




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