西方寺(さいほうじ TEL 0742-22-0546) 「連長寺」からまた登大路へ出て、大和棟の民家を5軒西へ行くと、正親天皇御綸旨霊場・南都総墓所・浄土宗草鞋山「西方寺」です。元は行基開基で東大寺の子院、佐保山麓にあって、1559年(永禄2年)松永久秀が多聞城を築くために追われ当地へ移転しました。本尊「阿弥陀如来坐像」は鎌倉時代の作で、国重文、元眉間寺(みけんじ、奈良市)の旧仏と云われています。また、市指定文化財「木造祐全上人坐像」は、著色の寄木造等身大坐像で、室町時代の作、初め東大寺に安置されていて、祐全(ゆうぜん)上人は、南都総墓所と云われた「西方寺」再興の祖で、坐像は墓石の代わりをしたのではないかと云われています。 |
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「みてござる観音」 「登大路」から「西方寺」の石段参道を上がる直ぐ西側に小さな望遠台があり、台上から望まれるのが、「西方寺」西側の船橋通り商店街の入口「曼茶羅坊」の三階屋上に祀られている「みてござる観音」です。山吹色に輝き、背丈が3.75mで、左手に蓮の華を持った立像ですが、昔は「西方寺」の外墓だった同地一帯と境内墓地に眠っておられる御先祖さま達はもとより、三界萬霊総法界六道輪廻の有縁無縁一切衆生に末永き御加護をお垂れ頂くべく、昭和60年に檀信徒御一同が寄進され、輪番御忌記念の浄財をもって勧請し奉った「観世音菩薩立像」で、浮世の悩み苦しみに救いの手をさしのべ、慈眼やさしく見ておられます。 |
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草鞋山(そうあいざん)西方寺の「銀杏」 また、石段参道を少し上がった東側の樹齢400年を越す大木は「厄除銀杏」「開山銀杏」「祐全銀杏」と呼ばれ、祐全上人が火難・水難一切の厄難から寺を護れかしと悲願を込めてお手植えになったと伝えられていますが、1638年(寛永15年)寺を柳町へ再移転せよと公儀の沙汰があった時、どうしても動かなかったテコ不動地蔵尊のあらたかな霊験に加えて、悪疫が流行り、南都奉行の中坊飛騨守秀政の孫・五良も難病に取り付かれ、思案に余って占うと、「是、墓ノ祟リナリ」と出た為、飛騨守も移転の沙汰を取消し、寺に参詣して前非を悔い改めると、「厄除銀杏」が頭上にこぼれ落ちたので、樹上を見ると枝から枝へ白蛇(みーさん)が見えつ隠れつ、つたって行きました。異様な光景に一瞬たじろいだ飛騨守は、落着きを取り戻すにつれ、あら有り難やもったいなやと仏の化身の白蛇を拝み、落ちた銀杏を拾って持ち帰り、孫に与えると難病が快癒しました。なお、毎年11月14日が当山の「十夜法要」で、厄除銀杏を本尊に供えます。 |
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山の寺「念仏寺」の山門 「西方寺」から「登大路」を渡って、東へ行くと、バス通りからちょっと入った奧に「葵」の紋を打った山門が建って、浄土宗降魔山「念仏寺」があります。通称「山の寺」と称して、1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得ました。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めです。 |
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漢国神社(TEL 0742-22-0612) また、「念仏寺」から東へ戻って、近鉄「奈良駅」西の高天交差点から「やすらぎの道」を南へちょっと行くと、右の奥まった所が「饅頭の祖神、林神社」と「縣社、漢國(かんごう)神社」です。通常は、木の格子の柵が有り閉まっていますが、これは奈良の神社仏閣ならば何処にでも在る鹿用の扉なので勝手に開けて入っても叱られません。境内に2つの神社と「源九郎稲荷神社」が同居して、その他に徳川家康公の鎧を納めた「鎧蔵」も有り、また、直径1m足らずの丸い石の「饅頭塚」や、奈良朝2代目の女帝、元正天皇が721年(養老5年)百済王から白雉を献上され、後亡くなった白雉を埋めた史跡「白雉塚」も有ります。 |
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「漢國神社」の拝殿と境内の桜 「漢國神社」は、592年(推古天皇の元年)2月3日大神君白堤(おおみわノきみしらつつみ)と云う方が勅(みことのり)を賜って園神(そのかみ)の神霊を祀ったのが始まりで、後に奈良時代の、717年(養老元年)11月28日藤原不比等が韓神の二座を相殿して祀ったのが「漢國神社」で、古くは春日率川坂岡神社とも称しました。ご祭神は大物主(おおものぬし)命、大己貴(おおなむち)命、少名彦(すくなひこ)命で、平安時代末以降は春日大社の末社として興福寺の支配を受けました。拝殿に続く本殿は、共に檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で曲線の柔らかさが桃山時代の様式を伝えて美しく、奈良県指定文化財です。 |
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「漢國神社」の境内社「林(りん)神社」 「林神社」は室町時代、1349年(貞和5年)中国から我が国へ帰化して、餡入り饅頭の製法を伝えた林浄因(りんじょういん)を祀っており、浄因の命日が4月19日で、子孫(今も東京で饅頭を作ってる「塩瀬総本家」)の方もお参りされます。また、子孫の林宗二(はやしそうじ)は初期の国語辞書「饅頭屋本節用集」を著し、印刷や出版の租で、毎年9月15日に「顕彰祭」が行われます。なお、境内の「鎧蔵」に、1614年(慶長19年)10月大阪冬の陣で、木津から奈良へ真田幸村の軍勢に追われた家康が桶屋の棺に隠れて助かった礼に奉納した鎧を納め(本物は奈良国立博物館寄託)、今は母屋の廊下に飾っています。 |