奈良公園  その2

 奈良国立博物館(TEL 0742-22-7771)

 JRまたは近鉄の奈良駅から市内循環外回りバスに乗車し、奈良公園内バス停「県庁前」の次のバス停が「国立博物館」ですが、近鉄奈良駅からなら歩いても約800mです。煉瓦造り石貼り、一階建て、小屋組が木造で、重文の「旧帝国奈良博物館本館」は、明治22年5月宮内省の達しで設立がきまり、明治25年2月建築に着工され、27年12月竣工して明治28年4月開館、明治33年6月帝国奈良博物館を奈良帝室博物館と改称し、宮内省に属したが昭和22年5月文部省に移管し「奈良国立博物館」で、開館10:00〜16:30、毎週月曜日(月曜が祝日の時は、火曜日)が休館、なお、裏庭に石棺が置かれています。
 「旧宝蔵院」の井戸の跡

 「奈良国立博物館」旧館の正面玄関前の右側と左側それぞれに「興福寺」の塔頭「旧宝蔵院」の井戸の跡があります。向かって右側が六角形の石組で、左側が写真の様な石組です。ここへは、その昔、京都で吉岡一門を破った宮本武蔵が、宝蔵院流槍術と手合わせのため訪れ、同流二世・胤舜(いんしゅん)が留守で、高弟・阿巌(あごん)と手合わせをして倒し、奧蔵院の住持・日観に「強すぎる、もうちっと、弱くなるがよい」と云わしめました。なお、武蔵は、「猿沢池」近くの素人家(しもたや)に泊まり、胤舜ら宝蔵院衆十数人と共に般若野で不逞な浪人を成敗した後、ここから「滝坂の道」を通って、柳生へと向かいました。
 氷室神社(TEL 0742-23-7297)

 「登大路」を挟み、「奈良国立博物館新館」の前が「氷室(ひむろ)神社」です。氷を貯蔵する氷室は、仁徳天皇62年、都祁村に造ったのが初めで、平城京遷都の710年(和銅3年)御蓋山の麓、吉城川の上流・下津岩根に氷室明神を祀ったのが社の起こりで、後に遷宮し、1217年(建保5年)現在地に鎮座、祭神は闘鶏稲置大山主(つげノいなぎおおやまぬし)命、大鷦鷯命(おおさざぎノみこと、仁徳天皇)、額田大中彦(ぬかたノおおなかひこ)命で、境内の灯篭の火袋に舞具が彫られ、毎年 5月1日に「献氷祭」が行われ、各地の製氷業者達が集い、花や魚などを埋め込んだ氷柱が立ち並び、「舞楽」が奉納されます。
 春日大社の国重文「一の鳥居」

 JR奈良駅から真っ直ぐ延びた「三条通り」を東へ進み、興福寺及び猿沢池を過ぎ、バス道路と交叉する所に春日大社の「一の鳥居」が建ち、安芸(広島)の厳島神社(宮島)、若狭(敦賀市)の気比神宮と共に日本三大木造鳥居の1つで、836年(承知3年)創建、昭和37年補修です。なお、鳥居を潜って直ぐ右に「影向の松」が植わり、春日大明神が昔松の下に姿を現わし(影向)、翁姿で万歳楽を舞い、これが能舞台正面の板壁に描かれている松のモデルで、今は切り株と、二世の若松が植わっていて、ここから春日大社の表参道で、両側に大小さまざまな石灯籠が千基以上並び、東へ約1.2km行くと春日大社の本殿です。
 春日大社の五重塔跡(西塔跡)

 春日大社「一の鳥居」を入った参道の左側(現在の奈良国立博物館校内)に春日東西両塔跡があります。神仏習合思想に基づいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構で、両塔の在りし日の偉容は多くの春日宮曼陀羅に描かれ、西塔は1116年(永久4年)関白藤原忠実により造営され、東塔(西塔の東90m)は1140年(保延6年)鳥羽上皇の本願により建立、そのため西塔は「殿下の御塔」、東塔は「院の御塔」と称されたが、1180年(治承4年)12月平重衡の南都焼討で焼失の後、相次いで再建されたものの、1411年(応永18年)雷火にあって再び焼失し、その後は再建されることなく今日におよんでいます。
 春日大社参道脇の「ムクロジ」

 春日大社の「東西五重塔跡」から「国立奈良博物館新館」の裏を通って、春日大社の表参道へ出る所に県下で最も大きな「ムクロジ」が植わっています。幹は地上5mほどの所で3本に枝分かれしており、その内2本が途中で折れていますが、樹高約18m、幹周り5.7m、推定樹齢300年で、幹の中は大きな空洞になっています。なお、「ムクロジ」は、日本の中部以西の山野に自生しており、奈良市内でも春日山に多く生えていて、晩秋の頃、葉が黄色く色づいて見える木の大部分が「ムクロジ」です。果実は、大型のビー玉ほどもあり、水に溶けて泡立ち、昔は石鹸の代用品で、黒くて硬い種子は、孔を空けて数珠にしました。
 春日大社摂社若宮の「お旅所」

 写真は、春日若宮「お旅所」で、春日大社の「一の鳥居」を入って表参道をちょっと歩いた左(北)側に在ります。なお、大和では祭り納めは「おんまつり」と云われて、毎年12月17日の午前0時、ミタマ遷 (うつ)しの「遷幸(せんこう)之儀」で若宮神社の祭神天押雲根命(あめのおしくもねノみこと)が当日建てられた「黒木の松のご殿」に渡って来られ「おんまつり」が行われます。なお、本番は毎年十万の人出で賑わう午後0時半からの「御渡式」で、県庁前を出発し、登大路、油坂、JR奈良駅から三条通りと練り歩き、南大門交名の儀、松の下式、稚児流鏑馬、競馬などが有り、午後2時半から、ここで御旅所祭です。
 重文「旧奈良県物産陳列所」

 「お旅所」の直ぐ東に建っている建物が明治35年3月に竣工した「旧奈良県物産陳列所」です。設計は建築史家で工学博士の関野貞(せきのただし)氏、外観は正面に唐破風の車寄せを付け、洋風を加味した木造桟瓦葺、全体のプランを京都は宇治の平等院の鳳凰堂になぞらえ、名勝奈良公園との景観の調和を図った和風様式の貴重な遺構です。なお、「奈良県物産陳列所」は、その後「奈良県商工陳列所」、「奈良県商工館」等と名称を変え、昭和26年に国へ移管されて、昭和55年まで奈良国立文化財研究所の庁舎でした。昭和58年1月重要文化財に指定され、現在は奈良国立博物館所属の「仏教美術資料研究センター」です。
 「鴎外の門」

 「旧奈良県物産陳列所」の裏、市内循環バスが直角に曲がる交差点の南西角に建っているのが「森鴎外の門」です。明治、大正にかけての小説家、評論家で、軍医としても名高い、森鴎外は、大正6年12月帝室博物館の総長に任命され、大正7年から10年まで、秋になると正倉院の開封に立ち会うため奈良を訪れ、滞在中の宿舎が奈良国立博物館の北東隅にありましたが、今は宿舎は取り壊され、ただひとつこの門だけが鴎外を偲ばせて呉れます。なお、彼は奈良での公務の合間に古社寺や旧跡を精力的に訪ね、「寧楽訪古禄」「奈良五十首」を残し、その内の1首は、「猿の来し官舎の裏の大杉は折れて迹なし常なき世なり」です。

 「荒池」越しに見た「奈良ホテル」

 春日大社の「一の鳥居」から南側へ向かうと、国道169号線で二分され、池畔に「銀座の柳2世」が植わっている「荒池」に出ます。1590年頃(天正年間)豊臣秀吉の命で掘られ、明治21年当時大干ばつで困った三条村、城戸村(今の大森町)、杉ケ村の各農家が乏しい資金を出し合って本格的な溜め池とし、以来百有余年農家は安心して米作にいそしみました。しかし、今は市街地を洪水から守り、また水面に奈良公園の緑を映して景勝地に生まれ変わり、対岸に天皇陛下もお泊まりになった古風な「奈良ホテル」がその影を落とし、また、夏には「荒池」東側の池畔に紅と白の花をそれぞれ咲かせて百日紅が彩りを添えます。
 「荒池」越しに見る「御蓋山」

 国道169号線東側の「荒池」越しに「春日山」が望まれるが、その手前にトロイデ式のスロープをもつ「御蓋山(みかさやま、標高294m)」が見えて、春日断層崖(春日山、高円山龍王山、巻向山、三輪山等)の三笠火山群(領家式片麻状花崗岩から成る)上に噴出した複輝石安山岩から成る単純な溶岩丘で、笠状の形をした神奈備山です。717年(養老元年)2月や751年(天平勝宝3年)に麓で遣唐使の航海安全を祈る神事が行われ、768年(神護景雲2年)11月9日鹿島社より春日社が遷座して、山頂の本宮嶽(浮雲峯)に摂社「本宮神社」が鎮座し、841年(承和8年)から春日山一帯、狩猟と伐木禁止です。
 「鷺池」から「高円山」を望む

 「荒池」の東隣の池が「鷺(さぎ)池」です。池の中に「浮見堂」が建っていて、毎年7月1日〜10月 31日までライトアップされ、夏季の夜半、幻想的なムードに浸れます。なお、写真の正面に見える山は高円山(標高463m)で、昔は麓に聖武天皇の高円(たかまど)離宮が在り、天皇崩御で荒れ果て、大伴家持が万葉集巻20−4506を詠い、また、白く見えているのが8月15日の「大文字」の痕で、更に池畔の貸しボート屋の前に「洞水門(どうすいもん)」があり、地中に伏瓶(ふせがめ)を埋め空洞を作り、そこに滴り落ちる水が反響して琴の様な音色を奏でるので、水琴窟(すいきんくつ)とも呼ばれています。




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