大峯山の麓、天川村、洞川  その1

 官弊大社丹生(にう)川上神社、下社

 天川村へは、近鉄吉野線下市口駅から国道309号線をバスで行きますが、広橋梅林を越えて、長谷川が丹生川へ流れ込む所を過ぎると、丹生川上神社下社が国道の左側にあります。ここは、神武天皇東征の時に親祭遊ばされ、後に、676年(天武天皇白鳳4年)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ」との神託により創建された古社で、祭神は、伊邪那美命が最後45番目に産んだ火之迦具土神により、陰(ほと)を焼いて死んだので、怒った伊邪那岐命が、火神を十拳(とつか)の剣で殺した時、流れ出た血から生じた闇淤加美神(くらおかみノかみ)、祈雨または止雨の神です。
 鳳閣寺(TEL 0747-62-2522)

 下市町「丹生川上神社」からR309を天川村へ向う途中が黒滝村で、道の駅「吉野路黒滝」から東へ向い、役場の前を通り、脇川沿いに北上し、バス停「脇川」を過ぎて、地蔵峠のトンネルを通らず、左の旧道を登り、バス停「地蔵峠」を過ぎて東へ折れ、山道を1キロ行くと、吉野山奥千本の山続き、百貝山(標高840m)の中腹に真言宗・百螺山(ひゃくらざん)「鳳閣寺(ほうかくじ)」があります。天智天皇の勅願で、678年(白鳳6年)4月役行者が創建して、空海の巡錫に続き、895年(寛平7年)7月16日聖宝(しょうぼう)が宇多天皇の勅命で、大峯の行場を再興し、大蛇退治して、修行の拠点としました。
 理源大師の法螺貝と大蛇の頭骨

 大峯山中興の祖聖宝は、832年(天長9年)奈良で生まれ、役行者を慕って山岳修行をし、京都の醍醐寺三宝院や東大寺の東南院を創立した真言宗の高僧です。909年(延喜9年)没で、1707年(宝永4年)第113代東山天皇から理源大師の号を賜り、鳥住山の当寺は、1700年(元禄13年)三宝院の直末で、全国の醍醐当山派山伏(真言系)を支配する「諸国総袈裟頭」の寺になり、明治5年の修行道廃止令まで大いに栄え、昭和26年真言宗鳳閣寺派として独立し、本尊は「如意輪観音」、理源大師が退治した大蛇の頭骨もあり、また、庫裏の横を通って、百貝山中を800m行くと、理源大師の廟塔、高さ1.2mで、国重文「石造宝塔」が覆堂の中に建っています。
 鳥住山地蔵峠の「地蔵堂」

 なお、また山を下り、地蔵峠まで戻ると、トンネルの入口の近くに「地蔵堂」が建っています。809年(大同4年)空海が求聞勤行(ぐもんごんぎょう)で大峯山修行の砌、この辺り(黒滝村鳥住)を巡錫し、日印唐三国の土で地蔵尊を造り奉祀したら、安産、母乳、眼病治癒等に霊験あらたかで、その後、895年(寛平7年)大峯中興の聖宝(理源大師)が鳥住鳳閣寺を開いた時、この地蔵尊のご利益は益々盛んでしたが、今の地蔵尊は1742年(寛保2年)奉祀され、高さ三尺八寸の松香石造、「鳥住山」の刻銘があり、大峯先達・内海道助三郎の寄進、細工人西川伊兵衛、厨子は1778年(安永7年)山石惣講の寄進です。
 天川弁財天社(TEL 0747-63-0558)

 近鉄吉野線「下市口駅」からバスで1時間半、天川村川合(かわい)で国道309号線と分かれて、県道53号高野天川線へ入り、天ノ川の下流へ約3キロ、川を渡ると、琵琶山の磐座(いわくら)上に「大峯本宮天川大弁財天社」が鎮座しています。天武天皇創建で、役行者大峯山山上ケ岳(標高1719m)で鎮護国家の祈祷中、最初に現れたのが弁財天、山上ケ岳は女人禁制の為、ここへ祀り、後に空海が高野山開山前の3年間、ここを根拠地として大峯山で修行し、天川弁財天を「琵琶山妙音院」と号して、一大聖地にされ、安芸国の宮島(厳島)、琵琶湖の竹生島と並ぶ日本三大弁天の1つで、古くから芸能の神様です。
 来迎院「坪内のイチョウの巨樹」

 天川弁財天神社は、朱色の鳥居をくぐってちょっと石段を上がった高台にあり、左に本殿、右に能舞台を配し、本殿の真ん中と脇間に二体の弁財天像を祀っています。また、天川弁財天は「大和国名所図会」にも描かれ、昔は来迎院(らいごういん)を始め諸堂塔が多く建ち並んでいましたが、明治元年の神仏分離令でほとんどを取り壊されました。でも、役行者が開基の「来迎院」は少し小さくなったお堂として、鳥居の前(西)方の山麓にあり、秋に行かれると写真のように屋根がイチョウの落葉で黄色く埋め尽くされますが、堂横の県指定天然記念物「坪内のイチョウの巨樹」は樹齢約800年で、幹周りが6.5mほどあります。




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