生駒山周辺と信貴山まで  その5

 国指定史蹟「行基墓」

 「竹林院」の本堂の方へ入らずに右(東)へ行くと「史蹟行基墓」があります。行基は、668年(天智天皇7年)に和泉国大鳥郡の家原寺で生まれ、父は、高志才智で、先祖は「論語」「千字文」を伝えた渡来人の王仁、母は蜂田古爾比売です。15才で出家し、24才で高宮寺徳光禅師から授戒。初めは法興寺に住し、後に薬師寺へ移り、法相宗を学ぶ。彼は社会事業に尽力して、生涯で新造、修復した物は、架橋6、直道1、池15、溝6、樋3、船息2、堀4、布施屋9に達し、75才で大僧正に任命されて、大仏鋳像にも勧進し、天平21年82才で寂。3月23日に弟子の真成が行基の伝記を舎利瓶に入れて、ここに埋める。
 竹林寺西墓の五輪塔「忍性墓」

 また、境内の西側に「忍性(にんしょう)墓」があり、鎌倉時代の律宗僧忍性は1217年(健保5年)7月16日大和国屏風の里(現在の三宅町屏風)で生まれ、叡尊の弟子で、行基を敬い、彼も慈善救済事業に務め、1261年(弘長元年)鎌倉へ赴き、光泉寺を開山し、極楽寺の第一祖となって、関東に戒律を広め、また、北条時宗の命により蒙古軍襲来時に退却を祈願し、後後醍醐天皇から「菩薩」の称号を与えられ、1303年(正安5年)極楽寺で87歳の生涯を閉じて、遺言により竹林寺、極楽寺、大和郡山の額安寺に分骨されました。昭和61年の発掘調査によって墓塔下から青銅製骨蔵器など、36点が出土しています。
 往馬大社(TEL 0743-77-8001)

 「竹林寺」の本堂の方へ戻って、「行基墓」の前を通り東へ向かって歩き、第2阪名道路の下をくぐって北へ向かい、近鉄生駒線・一分駅からの道と交叉する所を更に北へ辿ると「往馬大社」があります。祭神は伊古麻都比古命、伊古麻都比売命など7柱で、生駒谷17郷の氏神とされ、火の神として信仰を集め、毎年10月11日の例大祭「火祭り」が有名です。元々は生駒山を御神体とする古社で「総国風土記」「正倉院文書」にも記載され、古代より朝廷の崇拝厚く「延喜式」で官弊大社に列せられ、歴代天皇の大嘗祭で用いる「火きり木(うわずみ桜)」を献上し、また宝物として室町時代の「生駒曼陀羅」等を保存しています。
 「稲蔵(いなくら)神社」の鳥帽子石

 往馬(いこま)大社から、東へ行って、近鉄生駒線「一分駅」の手前、国道168号線を北上、近鉄奈良線と阪奈道路のガード下をくぐり、更に北上すると、バス停「稲蔵」の交差点で、鳥居をくぐって右(東)へ入ると、「稲蔵神社」が鎮座し、祭神は生魂(いくたま)明神、大宮能御膳(おおみやのみかしわで)神他で、稲蔵明神と云われ、境内の裏が「稲蔵の森」と呼ばれ、注連縄の懸けられた鳥帽子石(えばしいし)があり、高さ約6m、周囲約12mの花崗岩の巨岩、神が宿る磐座(いわざ)と云い、江戸時代の文献にも記載され、「小明の鎮守(ちんじゅ)」として、また、明治以降現世利益の神として信仰を集めてきました。
 長福寺(TEL 0743-73-2563)

 バス停「稲蔵」の交差点から西へ向い、阪奈道路の入口で右へ折れて、南部川沿いに北へ行って突き当ると、真言律宗金龍山「長福寺」があります。724年(神亀元年)行基の開基と伝えられ、中興が実詮律師で、重文の本堂は、1260年代(弘長年間)の建立で、桁行5間、梁間3間、入母屋造。内部は柱、壁面に仏画が極彩色で描かれ、寺宝には国宝「金銅能作生塔(こんどうのうさしょうとう、鎌倉時代、奈良国立博物館寄託)」、県文化「木像黒漆塗彩絵厨子(もくぞうくろうるしぬりさいえノずし、鎌倉時代)」等があり、本堂の東側に鎌倉時代の作「七重の石塔」が建ち、初層に四仏の種子(しゅうじ)を彫っています。




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