奈良朝で初めての男性天皇、聖武帝のこと

 奈良朝3代目で初めての男帝、第45代 聖武(しょうむ)天皇は701年(大宝元年)第42代 文武天皇の第1皇子として 藤原京で生まれ、母は藤原不比等(ふひと、鎌足の子)の娘宮子、異称を天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはるきとよさくらひこ)尊、(おびと)と云い、702年(大宝2年)12月父帝文武の祖母・第41代 持統天皇(天智天皇の第2皇女、天武天皇の皇后、草壁皇子の母)が58歳で崩御し、

 707年(慶雲4年)6月父帝文武が25歳で崩御した時、首皇子7歳が皇位を継ぐのにまだ幼かったので、7月祖母・阿閉皇女(あべノひめみこ、天智天皇の第4皇女、草壁皇子の妃、文武と元正天皇の母)が中継として即位した第43代 元明天皇で、当日の彼女の歌が万葉集巻1−76にあり、勇士が弓を射て鞆に弦の当る音が聞こえ、将軍が楯を立てて調練をしているらしい光景を詠み、

ますらをの鞆の音すなり物部の大臣楯立(おほまへつきみたてた)つらしも

 708年(和銅元年)加茂町銭司で「和同開珎」が鋳造され、710年(和銅3年)3月10日藤原京から平城京へ遷都する時、中つ道の「長屋の原(田原本町)」に御輿を停め、女帝元明天皇が夫・草壁皇子(首皇子の祖父)と息子・文武帝を偲び、万葉集巻1−78を詠いました。

  飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ


 714年(和銅7年)6月25日首皇子14歳が皇太子になって、715年(霊亀元年)正月皇太子として初めて朝政を拝朝し、2月元明天皇は勅語を出して、三品吉備内親王(元明天皇の娘、長屋王の妻、首皇子の父帝・文武天皇の妹)の子らを、皆皇孫(みなすめみま)の例(つら)に入れ、9月2日伯母・氷高(ひだか、首皇子の父帝・文武天皇の姉)内親王37歳が即位して、第44代 元正天皇になり、716年(霊亀2年)6月右大臣藤原不比等の娘で叔母になる安宿媛(あすかべひめ)・光明子(こうみょうし)16歳が皇太子妃になり、


 717年(養老元年)3月第7次遣唐押使多治比県守(たじひノあがたもり)、大使大伴山守(おおともノやまもり)、副使藤原宇合(うまかい、不比等の第3子、光明子の異母兄)、留学僧 玄ム(げんぼう)、留学生吉備真備(きびノまきび)24歳、阿倍仲麻呂らが渡唐し、4月僧尼(そうに)が統制されて、行基を「小僧」と呼び、名指しで糾弾(きゅうだん)しました。

 718年(養老2年)皇太子妃・光明子に阿倍内親王(あべないしんのう、後の 孝謙天皇)が生まれ、もう1人の夫人が讃岐守従五位下県犬養唐(あがたいぬかいノから)の娘・県犬養広刀自(ひろとじ)で、彼女との間に 井上(いがみ)内親王、安積(あさか)親王、不破内親王があり、更にもう1人の夫人が橘佐為(諸兄の弟)の娘・広岡朝臣古那可智(こなかち)で、他2人の夫人が藤原武智麻呂の娘と、藤原房前の娘です。また、この頃、本薬師寺が西ノ京の薬師寺へ移建され、

 719年(養老3年)6月首皇太子が初めて朝政を聞き、720年(養老4年)5月舎人親王(天武天皇の皇子)らが「日本書紀」を撰上して、前々年に養老律令を編纂した母方の祖父・右大臣の藤原不比等が8月に薨じ、舎人親王が知太政官事になって政務を総覧し、同年南九州の隼人(はやと)を征伐の為、遠征軍が派遣され、

 721年(養老5年)藤原不比等の1周忌にあたり、元明太上天皇と元正天皇によって、法相宗「興福寺」境内の北西隅に国宝の「北円堂」が建立され、12月に元明太上天皇が61歳で崩御し、722年(養老6年)吉備内親王(長屋王の妻)が母・元明太上天皇の菩提を弔うため、薬師寺の「東院堂」を建立して、元明太上天皇の等身大の観音像を安置しました。また、同年長屋王が国を豊かにするため百万町歩開墾を計画し、

 724年(神亀元年)2月4日元正天皇より譲位され、首皇太子が24歳で即位して聖武天皇になり、叔父の持節大将軍藤原宇合が唐より帰朝して蝦夷の反乱を平定し、彼の歌が万葉集に数首あり、

  暁の夢に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ  9−1729

 726年(神亀3年)聖武天皇は元正太上天皇の病平癒を祈願して興福寺の「東金堂」を建立し、また、天皇は冬に、左大臣 長屋王(ながやノおうきみ、天武天皇の孫、母が元明天皇の姉・御名部皇女)の佐保の邸宅(平城京左京二条二坊の一、二、七、八、1万8千坪、今の奈良イトーヨーカ堂)で、肆宴(とよノあかり、室寿ぎ、天皇の饗宴)を催され、万葉集巻8−1638を詠いました。

  あをによし 奈良の山なる黒木もち 造れる室(むろ)は座せど飽かぬか

 727年(神亀4年)9月29日妃の光明子に基(もとい)王が生まれ、同じ日に生まれた全ての子供達に布・綿・稲などを賜り、1カ月後の11月2日基皇子が皇太子に立てられ、

 728年(神亀5年)天皇が富雄で狩りをした時、地元の豪族真弓長弓(まゆみノたけゆみ)が、世嗣で養子の長麿(ながまろ)に弓矢で誤って射殺され、長麿が嘆いていると、天皇も悼く哀れんで、行基に命じ、「十一面観音」を彫らせ、「長弓寺」を建立して本尊にし、また、「王龍寺」も勅願で創建されました。

 なお、同年夫人・県犬養広刀自に安積親王が生まれ、9月13日皇太子 基王が誕生日を前にして亡くなり、それにからめて藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が、翌年2月12日長屋王を謀反の罪で自尽させ、骨を土佐国へ流し、6ヶ月後に年号を改めて天平とし、8月10日四兄弟の妹・光明子を皇后にしましたが、天皇の妻妾は后、妃、夫人、嬪(ひん)の別があり、聖武天皇の夫人(位は三位以上)は先の4人です。

 729年(天平元年)年号が改まって天皇は、出雲国(島根県)の八雲山(蛇山、不老山、宇迦山)の麓に鎮座する「出雲大社」へ行幸された夢を見て、「岩船寺」の創建を発願し、 行基に勅して建立しました。

 730年(天平2年)4月光明皇后は皇后宮職(元藤原不比等の邸宅、 法華寺)に悲田院、施薬(せやく)院を建て、貧民や病人の救済にあたり、また、4月28日皇后が前年発願して着工した興福寺「五重塔」が竣工し、造立では皇后が親ら夫人・命婦・采女らと共に簣(もっこ)を担いで土を運び、中務卿の藤原房前も文武百官と共に杵を持って従い、6月長屋王の祟りによる落雷があり、朝廷は諸国に祭祀を命じ、9月29日行基が飛火野に一万の民衆を集め、因果応報輪廻転生を説いたので、糾弾され、

 732年(天平4年)8月17日聖武天皇は始めて派遣される西海道(壱岐、対馬を含む九州全土)の節度使(軍備充実のための地方監察使)藤原宇合らに酒を賜って、万葉集巻6−973を詠い、反歌の巻6−974を元正太上天皇が詠いました。

  食(を)す国の遠の朝廷(みかど)に汝(いまし)らが かく罷(まか)りなば
  平(たひら)けく我れは遊ばむ手抱(たむだ)きて 我れはいまさむ天皇我
  (すめらわ)が うづの御手もち かき撫(な)でぞ ねぎたまふ うち撫でぞ
  ねぎたまふ 帰り来む日 相飲まむ酒(き)ぞ この豊御酒(とよき)は
  
  ますらをの行くといふ道ぞおほろかに思ひて行くなますらをの供 6−974
  
 なお、同じ日に第8次遣唐使発遣の事も議せられ、従四位上多治広成(たじひノひろなり)が大使で、従五位下中臣名代(なかとみノなしろ)が副使に任命され、乗組員総勢580余名でしたが、留学僧、留学生は年が改まってから決まり、 元興寺の僧隆尊(りゅうそん)の要請で、唐より戒律の師を招くために興福寺の僧栄叡(ようえい)と大安寺の僧普照(ふしょう)が選ばれ、733年(天平5年)3月3日山上憶良(第6次遣唐使)が大使多治広成の船出に際し、万葉集の長歌と反歌2首を贈りました。

  大伴の御津(みつ)の松原かき掃(は)きて吾(われ)立ち待たむ早帰りませ  5−895

 733年(天平5年)1月、光明皇后の母・橘三千代が逝去、4月3日第8次遣唐使船(四つの船)四隻は難波津を出航し、4月の終り筑紫の大津浦を離れてから大しけに遭い、やっと8月四隻ばらばらに蘇州へ漂着し、8ヶ月後翌年の春、734年(天平6年)4月広成らは東都洛陽(らくよう)に入り、玄宗(げんそう)皇帝に納上品を贈って拝賀しました。


  734年(天平6年)正月11日皇后の母・橘三千代の一周忌に興福寺の「西金堂」の落慶供養が行われたが、造立に際し、372日間延5万5千人を要しました。なお、この頃天皇の夢枕に薬師如来が現れて、阿倍内親王永年の病を平癒したので、「霊山寺」の創建を発願し、また、行基に勅して建立され、鷹狩りの折りに立ち寄って、皇后らと霊山寺の「薬草風呂」に入浴しました。
 4月7日近畿地方に震度6程度の大地震が発生し、多くの家が壊れ、圧死する者多数、山が崩れ川は塞がり、地割れが方々に起り、その数は数知れず。地震の後、天皇は「この頃の天地の災難は異常である。思うにこれは朕が人民を慈しみ徳化において欠けたところがあったのであろう」と使者を京および畿内に使わし、人々の悩みや苦しみを問わせました。そして、大赦を実施し、一切経を写経させ、読経を命じています。


 なお、同年9月の中頃、第8次遣唐大使広成らが洛陽を発ち、その時、第7次遣唐留学僧として17年唐土にいた玄ム。留学生として入唐し、この時41歳の 吉備真備。30年前単独で入唐し、三論と法相を学んだ景雲(うんけい)。唐の僧道叡(どうせん)。婆羅門僧 菩提遷那。菩提遷那の弟子・林邑(りんゆう、ベトナム)僧仏哲(ぶってつ)、波斯(ペルシャ)人李密翳(りみつえい)らを伴って、10月四隻の遣唐使船は蘇州から帰国の途に就いたが、ほどなく暴風に見舞われ、漂流して、翌年4月最初に帰朝しのが大使広成らの第一船に乗船した玄ム、真備らだけでした。

 735年(天平7年)5月23日天皇はこの頃の災異に対し、勅して大赦し、やもめ暮らしの者や未亡人、天涯孤独の者などに物を賜い、高齢者に穀を賜ったが、特に九州一帯に疫病(天然痘)が流行り、9月一品(いっぽん)新田部親王が病に倒れ、11月知太政官事舎人親王も亡くなりました。また、第8次遣唐使の第二船に乗船して難破し、南海に漂着して、再び洛陽に戻っていた副使中臣名代が菩提遷那、仏哲、李密翳らを伴って、11月帰国の途に就き、翌年8月奈良の都へ入って拝朝しました。

 736年(天平8年)5月1日光明皇后は発願して、玄ムが唐から持ち来たった「開元釈教目録」一部5048巻の膨大な「一切経(五月一日経)」を書写させ、11月9月天皇は叔母の元正太上天皇らと皇后(おほきさき、光明皇后)の宮で宴を催し、従四位上左大弁の葛城王(かつらきノおほきみ、光明皇后の異父兄、母は県犬養橘三千代)に従三位を与え、橘(たちばな)の氏を賜って橘諸兄(たちばなノもろえ)とし、橘を言祝ぐ万葉集巻6−1009を詠いました。

  橘は実さへ花さへその葉さへ 枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木

 737年(天平9年)一昨年に続き全国に天然痘が又蔓延し、太政官の要職を占めていた光明皇后の兄達、藤原四家の北家・参議民部卿正三位房前(ふささき)が4月、京家・参議兵部卿三位麻呂(まろ)が7月、南家・右大臣正二位武智麻呂(むちまろ)も7月、式家・参議式部卿正三位宇合(うまかい)が8月病魔の犠牲になり、天皇も大疫病の後、橘諸兄が台頭し、大納言、更に右大臣に進み、政権を担当し、12月27日伝染病を広めた天の怒りを天皇が徳を養って鎮める為、国号「大倭(やまと)」を「大養徳(やまと)」に改め、同月光明皇后の進めで、幽憂に沈んでいた皇太夫人宮子が僧正玄ムの看病を受けて全快し、聖武天皇は37年間藤原不比等の館(法華寺)に幽閉されていた母・宮子に再会しました。

 738年(天平10年)正月阿倍内親王21歳が皇太子になり、橘諸兄が右大臣になって、また、第8次遣唐使の第三船に乗船して難破し、遠く林邑(りんゆう)まで流されて、ほとんどが土人に殺され、判官平群広成(へぐりノひろなり)を入れて生存者4名が長安に戻っていたが、3月彼らは山東半島から船で渤海(ぼっかい)へ出て、渤海国使と共に日本へ向い、途中で又暴風に遭い、出羽国(山形県)に漂着して、奈良の都へ入ったのは翌年10月17日です。しかし、第四船の消息は未だに不明で、先に第一船で帰国した吉備真備は、皇太子・阿倍内親王の家庭教師を勤めました。

 739年(天平11年)僧行信(ぎょうしん)が、法隆寺の「東院伽藍」を創立し、また、天皇が清らかな水が湧き出る小田原山の麓に「西小田原寺(浄瑠璃寺)」を創建することを発願され、行基に勅して堂宇を建立しました。

 740年(天平12年)2月天皇と皇后は河内国大県郡「知識寺」へ行幸、盧舎那仏を拝し、東大寺の造営を思い立たれ、9月3日藤原広嗣(ひろつぐ、宇合の息子)が西海道(九州)で乱を起こし、天皇の側近玄ムと、真備を宮廷から追い出す様に要求したが、同じ不比等の孫の天皇は大将軍大野東人(あずまびと)に畿内と北陸を除く五道から1万7千の兵を集めさせ、長門(山口県)へ向かう様に命じ、兵4千を率いた大将軍が、9月22日板櫃鎮(いたびつノちん、北九州市小倉区到津)を襲い関門海峡の拠点を占拠し、皇軍は大挙して九州に上陸。一方、太宰少弐(だざいしょうに)広嗣も、三手に分け九州各地から兵を動員しようとしたが、なかなか集まらず、やむなく、10月9日広嗣は兵1万で皇軍6千が守る板櫃鎮の西岸に出陣したが、ここで皇軍は議論による舌戦をしかけ、玄ム、真備の事には触れず、「勅命だから太宰府の官人を集めて反乱軍を解散せよ」と命じると、勅命と聞いた広嗣軍は転でばらばらになり、広嗣も新羅へ逃れ様としたが、風で吹き戻され、10月23日五島列島値嘉島(ちかノしま)長野村で無位の阿部黒麻呂に捕まって、弟の綱手と共に首を跳ねられました。なお、広嗣が生前詠った歌が万葉集に一首あり、

  この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな  8−1456

 それから都(平城京)では、藤原広嗣の祟りによる災いが起こり、10月29日祟りを恐れた天皇は「思う所あるにより関東に往かん」と云い、皇后や群臣を引き連れ、藤原仲麻呂(武智麻呂の第二子)、東漢(やまとノあや)氏らを護衛にして平城京から離れ、始めは伊勢に行幸し、11月23日三重の郡(こほり)の「吾(あが)の松原」で、万葉集巻6−1030を詠いました。また、光明皇后が降る雪を見て詠った歌が万葉集巻8−1658で、歌碑は東大寺大仏殿の西側にあり、

  妹に恋ひ 吾(あが)の松原見わたせば 潮干の潟に鶴(たづ)鳴き渡る

  我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし  巻8

 12月右大臣橘諸兄の進めにより、彼の別邸があった山背国(やましろノくに)相良郡、甕原宮(みかノはらノみや)へ行幸し、741年(天平13年)正月橘諸兄に命じ、遷都して「大養徳恭仁大宮(やまとノくにノおおみや、京都府相楽郡加茂町)」と命名され、内舎人の大伴家持が「久邇(くに)の京」を讃(ほ)め湛えて作った歌が万葉集にあり、歌碑は泉川(木津川)に架かる恭仁大橋の袂にあり、

  今造る久邇の都は山川の さやけき見ればうべ知らすらし  6−1037

 同年10月天皇は、行基が泉川(今の木津川)に「泉大橋」を架ける為に滞在していた「泉橋寺」へ行幸され、今までの弾圧を謝罪し、優婆塞(うばそく)を正式に僧として認めました。
  
 742年(天平14年)8月天皇が紫香楽宮(しがらきノみや、滋賀県甲賀郡信楽町)に行幸すると、9月近畿地方に台風が来襲 し民家が吹き飛ばされ、10月塩焼王(新田部親王の第1子、妃は天皇 の娘・不破内親王)が女官と不純な行為をして伊豆へ配流され、
  
 743年(天平15年)5月皇太子が恭仁の新宮の内裏で五節(ごせち)の舞を舞われ、5月27日墾田(こんでん)永年私財法が発布されて、上級貴族や寺の荘園が増加し、10月15日天皇は「天下の富を保つ者は朕なり、天下の勢を保つ者は朕なり、この富と勢とを以って此の尊像を造る」と、「甲賀寺大仏造立の詔」を発布して、金銅製盧舎那仏造立を発願し、朱雀門なども建てられたが、
  
 744年(天平16年)1月11日天皇は難波宮(なにわノみや、大阪市東区法円坂町)に行幸され、安積(あさか)親王17歳も従ったが、親王は途中で脚気になり、桜井頓宮(とんぐう、枚岡市)から恭仁宮へ引き返し、2日後、藤原仲麻呂(武智麻呂の第二子、光明皇后の甥、後の恵美押勝)に暗殺され、御陵は京都府相楽郡和束(わづか)町の茶畑の上にあります。
  
 なお、この頃の人口は良と賎で約600万人、その内約一割60万人が官戸(かんこ)、陵戸(りょうこ)、公奴婢(くぬひ)、家人(けにん)、私奴婢(しぬひ)ら「五色の賎」で、奴婢の成人男子1人は稲900束(米で約2700キロ、今の価格で約100万円)で取引され、744年(天平16年)2月12日大仏鋳造と伽藍造営に関わる京畿(けいき)諸国の官奴婢と私奴婢ら790戸の身分を、天皇の慈悲による詔で良民にし、 
 また、2月24日天皇は叔母の元正太上天皇や橘諸兄を難波宮に残して紫香楽宮へ向われましたが、大伴家持に詠われた「久邇京」をわずか3年2カ月で廃都にし、2月26日難波宮を皇都にして、諸国に国分寺、国分尼寺造営の詔勅を出され、745年(天平17年)1月21日盧舎那仏造顕に尽力する行基を大僧正にされました。
  
 所で、この頃地震が頻発し、遷都反対派により紫香楽を囲む山々を放火されたので、仲麻呂の平城遷都の献策を入れ、745年(天平17年)5月11日都を再び平城京に遷都し、8月23日山金里(やまがねノさと)の金鐘寺(こんしゅじ、基王の冥福を祈って光明皇后が創建、大倭国金光明寺、東大寺の前身)で大仏造営が再開され、8月末天皇は再び難波に行幸して、9月17日難波宮で病床につかれ、まもなく小康を得て平城京へ遷幸し、11月玄ムを筑紫大宰府の「観音寺」へ左遷すると、玄ムは翌年(天平18年)6月18日任地で亡くなり、無念の死をとげた彼の頭が奈良へ帰って来た所が頭塔で、肘(ひじ)が落ちた所がJR桜井線・京終駅の近くの肘塚(かいのつか )町です。
  
 746年(天平18年)10月6日天皇は太上天皇、皇后と共に金鐘寺へ行幸され、数千人の僧侶に燭台を持たせて仏の周囲を読経させつつ三度めぐらせたが、この年と翌年は天皇の健康が優れず、747年(天平19年)元旦の「朝賀の儀」が廃止になり、3月皇后が天皇の病気平癒を願って、香山薬師寺(新薬師寺)を建立し、七仏薬師像を造り、
  
 747年(天平19年)3月16日10年間続いた国号「大養徳国」を又元の「大倭国」に戻して、9月29日大仏の鋳鎔(ちゅうよう)が始り、748年(天平20年)4月元正太上天皇が69歳で崩御されたが、大仏造営を励まれるのに鍍金のための黄金が国内に殆ど無く、東大寺別当良弁(ろうべん)に祈祷を命じると、良弁七日七夜の祈請で、夢に「近江志賀の椿崎の岩石の上に如意輪観音を安置せよ」とのお告げがあり、そこへお堂を建てたのが「石山寺」で、
  
 749年(天平21年)2月2日大僧正行基が菅原寺で亡くなり、2月22日陸奥国司百済王(くだらノきみ)から黄金の出た知らせが届き、祥瑞(しょうずい)とし、4月14日年号を天平から天平感宝に改め、これらの事は今昔物語、石山寺縁起に書かれ、また、天皇は皇后と共に東大寺へ行幸され、大仏に相対して、橘諸兄に告げしめ、「三宝の奴と仕え奉る」と敬々(うやうや)しく礼拝し、5月12日越中國守館で大伴宿祢家持(おおともノすくねノやかもち)が天皇の御代を言祝ぐ歌を万葉集で詠い、
  
  天皇の御代榮えむと東なる陸奧山に黄金花吹く     18−4097
  
 更に天皇は、京畿の主な寺12に墾田等の資物を喜捨(きしゃ)し、延命長寿と天下泰平の願を立て、仏道に専念する決意を表明し、法名を勝満と称して出家、一カ月余りの後、「よろずの政が繁く多くあって、自分の身はそれに絶えることができない」と述べて、749年(天平感宝元年)7月2日皇太子の阿部内親王33歳へ皇位を禅譲(ぜんじょう)し、第46代孝謙(こうけん)天皇が即位したが、8月皇后宮職が紫微中台(しびちゅうだい)と改められて、政治の実権を握り、尼寺になっていた故藤原不比等の邸宅(法華寺)を総国分尼寺(そうこくぶんにじ)にして、墾田100町を寄進し、
  
 750年(天平勝宝2年)正月吉備真備が筑前国の大宰府へ左遷されて、9月24日「四つの船」に乗る第9次遣唐使450名が選ばれ、大使は参議従四位下藤原朝臣清河(きよかわ、房前の子)、副使従五位上大伴古麻呂(おおともノこまろ)で、11月従四位上吉備真備が呼び戻されて、遣唐副使に追加で任命され、それに伴い大使藤原朝臣清河が正四位下、副使大伴古麻呂が従四位上に特進しました。
  
 751年(天平勝宝3年)聖武上皇はこの頃病が重くなり、10月23日〜7日間「新薬師寺」に49人の高僧を招いて、延命法要を行ったが、平癒せず、翌年(天平勝宝4年)2月末ほぼ大仏の姿形が出来上がったので、天平16年2月12日に出した放賤の詔(みことのり)を紫微中台が廃して、再び元の雑戸、私奴婢に戻し、その2ヶ月後、上皇は少し病が回復され、

 752年(天平勝宝4年)3月9日第9次遣唐大使藤原清河らが御蓋山(今の春日大社の辺り、当時まだ春日大社は創建されておらず)に詣でると、光明皇后が甥の清河の無事を祈って、万葉集巻19の歌を贈り、藤原清河も巻19−4241を詠い
、  
  大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち  19−4240
  
  春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで  19−4241
    
 752年(天平勝宝4年)4月9日大仏開眼法要で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らが行幸し、文武百官、印度や中国の僧侶も入れて約1万人が参加して、病弱の聖武上皇に代って菩提遷が目に墨を入れて開眼した大仏は、まだ未完成で、鋳造ミスによる穴は開いたまま、台座の蓮弁の線もまだ刻みかけで、鍍金は正面から見える所だけでした。この様に大仏開眼を急ぎ、強行したのも聖武上皇の治世下730年代は日照りや水害による凶作と飢饉、あいつぐ大地震、天然痘の流行等、天災が続き、多大の国費を費やして人心が揺らぎ、世情が不安定で、それに聖武上皇自身の体の衰えが早まったからです。なのに、大宰少弐小野老朝臣(おのノおゆノあそん)は万葉集で、次の様に詠っています。
  
  あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり   3−328
  
 また、春の終わりに500余人が乗った四つの船が難波津を発ち、無事に明州の寧波(にんぽう)付近に上陸したのは7月で、秋の終わりに長安に入り、一行は鴻臚寺(こうろじ、迎賓館)に落着き、新年の賀筵(がえん)に大使藤原清河、副使大伴古麻呂、吉備真備らが出席しましたが、遣唐使の席次が日本へ貢物をする新羅(しらぎ)の使臣よりも下座だったので、大伴古麻呂が激高して抗議をすると、皇帝がもっともだと云い、中国側が最上座に替えて呉れたが、その後春日野の梅の花は毎年咲くのに、

 753年(天平勝宝5年)11月15日夜半、在唐36年の阿倍仲麻呂が望郷の思いで詠い、百人一首にも載っているかの有名な歌碑は、中国・鎮江(ちぇんちあん)郊外の北固山(ほくこざん)に建っていて、

  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも  百人一首7番

 阿倍仲麻呂が大使藤原清河らと乗船した帰国の第一船は月明かりの下、黄泗浦(こうしほ)を出航したけど、沖縄で座礁し、その後遭難して、安南(ベトナム)まで押し流されて帰朝できず、彼らは10余人の生存者と共に長安へ戻り、また、藤原清河も名を「河清」と改めて唐朝に仕えました。
  
 なお、11月15日夜半、黄泗浦を同時に出航した副使・古麻呂の第二船に鑑真が5度の艱難で盲目になりながら、弟子の思託(したく)ら24人と共に便乗し、亀に助けられて風濤を越え、沖縄を経て、12月20日薩摩国阿多郡秋妻屋浦(あたノこおりあきめやノうら)に到着し、翌年2月4日平城京へ入り、また、帰国の第三船に乗っていた副使の眞備、普照(ふしょう)らも遭難して、熊野灘の梶取埼(和歌山県太地町)まで流されたが、少し遅れて何とか無事に帰朝し、

 754年(天平勝宝6年)4月5日大仏殿前に戒壇を築き、仏教心の厚い聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め、多くの僧尼ら総勢440人に鑑真が「授戒の儀」を授け、10日後、また、第9次遣唐使判官布勢人主の第四船が薩摩国石籬浦(いしがきノうら)に到着したと云う知らせがあり、

 755年(天平勝宝7年)2月鑑真が新田部親王の旧宅を賜り、そこに精舎(しょうじゃ)を営んで、「建初律寺」と号しましたが、聖武上皇は翌年、遺詔の形で道祖王(ふなどノおほきみ、新田部親王の第2子)を皇太子に任命し、また、上皇は娘・ 孝謙天皇の勅願で「円成寺」を創建し、

 756年(天平勝宝8年)5月2日聖武太上天皇は56歳で崩御され、光明皇太后が「夫の遺品を見るのは辛い」と、6月21日聖武太上天皇の四十九日(七七日)に当り、遺品を洗い浚い「正倉院」に施入し、また、種々の薬物を東大寺の「盧舎那仏(大仏)」に奉納され、

 757年(天平宝字元年)4月橘諸兄が没すると、藤原仲麻呂が道祖王を廃して、大炊王(おおいおう、舎人親王の子、後の淳仁天皇)を皇太子に立て、まだ一部を残して盧舎那仏の鍍金がやっと終り、聖武上皇の崩御で一時中断していた鑑真の「建初律寺」で「金堂」が造営され、橘奈良麻呂の変があり、

 758年(天平宝字2年)第48代淳仁(じゅんにん)天皇が即位され、翌年8月「建初律寺」が建立して、孝謙上皇自らが筆を取り、「唐招提寺」の勅額を山門に掲げると、その翌年鑑真の招聘に尽力した普照(ふしょう)のもとへ、唐から一対の鴟尾(しび)が届き、「金堂」の屋根に据えられ、

 760年(天平宝字4年)6月7日光明皇太后が60歳で亡くなりましたが、彼女は生前の著書「楽毅論(がっきろん)」に藤三娘(とうさんろう)と記して、仏教の教えを実践し、「積善(せきぜん)の藤家(とうけ)」の出なので、善行を積んだ藤原氏の三女は極楽浄土へ往生しました。

 763年(天平宝字7年)6月6日鑑真和上が76歳で亡くなり、彼の肖像は「御影堂」に安置され、毎年「唐招提寺」で鑑真和上の故郷、揚州の花「けい花」が咲く頃、命日を挟んで3日間開扉されます。

 764年(天平宝字8年)9月11日恵美押勝(藤原仲麻呂)が謀反を起すが、孝謙上皇の軍が「正倉院」の宝剣を持ち出し近江の高島まで追って討取ると、10月9日上皇は重祚(ちょうそ、再び天皇になること)して、第49代称徳天皇に即位し、翌年西大寺を建立され、四天王像を鋳像して、国家の安泰を願い、弓削道鏡(ゆげ丿どうきょう)を太政大臣禅師にしました。

 768年(神護景雲2年)武甕槌命(たけみかづちノみこと)が鹿島立(かしまだち)で白鹿に乗り、御蓋山に降り立ったので、称徳天皇の勅命で、左大臣藤原永手(ながて、房前の子)が春日大社を創建し、

 770年(宝亀元年)称徳天皇が54歳で崩御すると、永手や藤原百川(ももかわ、宇合の子)の推す、白壁王(しらかべおう、施基親王の第6子)が第49代光仁天皇に即位し、道鏡が下野国へ左遷されて、中国では仲麻呂が在唐50余年72歳で客死し、同年藤原清河も唐で亡くなったが、清河と唐土の女性との間に生まれた娘・喜娘(きじょう)がいて、

 778年(宝亀9年)清河の娘・喜娘が20歳になって、第10次遣唐船の帰り船で亡父の故国へ渡来したが、彼女も船出後6日目の日没に遭難し、漂流すること3日間、生き残った41人と共に舳(へさき)にしがみ付いて6日間を過ごし、13日目の深夜天草(九州)へ漂着しました。

聖武天皇鏡御影(かがみノみえ)
(東大寺、奈良国立博物館蔵)
信貴山縁起絵巻(大仏部分)
(信貴山朝護孫子寺所蔵)

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